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社説・コラム

緑地帯 ダルウィーシュが見つめた広島 小泉純一 <2>

 ダルウィーシュの名前が日本のマスコミで取り上げられ始めるのは1970年。さかのぼると50年代から、日本とアジアやアフリカの国々のつながりを文化の面から模索するアジア・アフリカ作家会議が組織され、第1回大会が56年にニューデリーで開かれた。

 当初の日本側メンバーには石川達三、野間宏、加藤周一らが名を連ねている。69年にはこの地域の優れた作家に対してロータス賞が授与されることになった。第1回の受賞者6人の中にマフムード・ダルウィーシュという若いパレスチナ詩人がいることが、70年9月に雑誌「朝日ジャーナル」で報じられている。

 翌年7月の同誌に、70年11月に行われた授賞式での彼のスピーチが引用されている。要約すると、パレスチナでは優れた詩は牢獄(ろうごく)の中で書かれ、詩は人々の声であり、詩人は生きるために道を切り開くという、情熱のこもったスピーチだったそうだ。

 こうしたつながりから、74年に野間は「現代アラブ文学選」を出版、同年6月には日本アラブ文化連帯会議を主催し、ダルウィーシュが日本に招かれた。

 ダルウィーシュが2008年に逝去した時、土井大助訳による彼の詩「身分証明書」を引用した死亡記事が目に留まった。土井は70年代から彼の詩を翻訳しているが、冊子の形で「パレスチ抵抗詩集」が出されたのは81年から83年にかけてのことだった。

 70年代から80年代にかけてその名は日本に種として撒(ま)かれてはいたが、広島を訪れたことを含め、ほとんど忘れ去られている。(日本福祉大教授=愛知県)

(2017年7月20日朝刊掲載)

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