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社説・コラム

緑地帯 ダルウィーシュが見つめた広島 小泉純一 <5>

 イスラエルは1982年6月、ベイルートに本部を置いていたパレスチナ解放機構(PLO)を追い出すため、レバノン南部から戦車による陸上攻撃を開始した。主たる攻撃目標はパレスチナの過激派集団ではあったが、パレスチナ難民やレバノン国民もその巻き添えを食うことになる。

 ダルウィーシュはこの戦闘の体験を基に書いた詩「忘れやすさのための記憶」で、空爆を受けている人間の悪夢のように過ぎていく時間を散文的に描写している。陸上攻撃に続き、ベイルート空爆が開始された。この作品では、彼が初めて空爆を体験したのは8月6日とされている。

 その結果、PLOがレバノンからの撤退を表明するのは10月。3カ月の間に、難民キャンプを含めベイルートの数多くの建物が瓦礫(がれき)と化した。その頃、ダルウィーシュはPLO執行部に加わり、この街で政治文書の作成を担当していた。爆撃機は海から姿を現したという。

 攻撃のさなか、ダルウィーシュは広島のことを思い出している。以下、「忘れやすさのための記憶」から(訳は筆者)。

 「広島の原爆の日、まさにその日に奴らは僕たちの肉体に真空爆弾を炸裂(さくれつ)させた。その試みは成功した。/広島について覚えていることは、アメリカ人がその名前を忘れさせようとしたこと。私は広島を覚えている。九年前そこにいたのだ。ある街角で、広島はその記憶を語ってくれた。かつての広島がそこに存在したことを、誰がこれから広島に思い出させてくれるだろうか」(日本福祉大教授=愛知県)

(2017年7月25日朝刊掲載)

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