×

ニュース

在米被爆者 8・6伝える 日系2世更科さん広島で証言 「若い世代は希望」

 7月、在米被爆者でつくる米国広島・長崎原爆被爆者協会の会長に就任した日系2世の更科洵爾(さらしな・じゅんじ)さん(88)=カリフォルニア州=が31日、親子3代で初めて広島に里帰りした。「核兵器は決して使われるべきでも存在すべきでもない」。日米の若者たちに旧制広島一中(現・国泰寺高)3年の時の被爆体験を語るとともに強いメッセージを伝えた。

 更科さんは現在の安芸高田市からハワイ・マウイ島に移民した僧侶を父に生まれた。1936年、日本で教育を受けようと母、きょうだいと広島へ。翠町(南区)にあった寄宿舎から一中に通っていた。あの日、爆心地から約4キロの南観音町(現西区)で動員作業中に被爆した。

 今回は親善試合で松江市と広島市を訪れた日系4世のバスケットボール選手の孫エミリーさん(14)とステファニーさん(10)に同行した。足腰が弱り不安もあったが、やはり被爆者の妻清子さん(86)とともに「孫と平和記念公園を歩く最後の機会」と墓参を兼ねた長旅を決意した。

 選手受け入れに関わった住民グループ「本川おもてなし隊」の計らいで、原爆資料館で選手120人と広島の中高生らに証言を語る場を企画した。「火の手に阻まれ、校舎に着いたのは翌日。プールで見つけた下級生を助けようと腕を引き上げたら皮膚だけ取れた。何千もの死体を前に恐ろしいと思う感情すら失った」。一中では建物疎開に出た1年生を中心に369人が犠牲になった。死にそうな下級生に水を飲ませることしかできなかったことが心に残っているという。

 一家は戦争の歴史に翻弄(ほんろう)された。父は米本土の日系人収容所に抑留。更科さん自身も米軍の一員として朝鮮戦争に動員された。日系人、そして被爆者としての体験から湧き出る平和への願いを証言に込めた。

 「若い世代は私の希望。体験を心で感じてくれるから」と更科さん。最前列で静かに証言を聞いた孫のエミリーさんは「祖父の体験は、教科書だけでは決して分からない歴史。私も周りに伝えていく」。次世代へ思いは託された。(金崎由美)

(2017年8月1日朝刊掲載)

年別アーカイブ