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被爆ランナー形見の記念杯 美土里在住 いとこの三上さん 記憶継承 引き受け先探す

 戦時下、スポーツに打ち込み、箱根駅伝出場を目指した青年の証しを残したい―。安芸高田市美土里町の宮司三上啓(ひろし)さん(84)は、1945年8月6日に広島市中心部で被爆し、19歳で亡くなった、いとこ南勇さんの形見の引き受け先を探している。学生時代、中国駅伝で区間賞を獲得した記念カップ。南さんと一緒に「被爆」した貴重な資料でもある。(山成耕太)

 南さんは広島市商業学校(現市立広島商業高)の選手として41年、福山市から広島市までの118・2キロ(全8区間)を走る第11回中国駅伝に出場。4区の三原―本郷間(12・7キロ)で区間賞に輝き、同校を学生の部優勝に導いた。

 三上さんも当時、7歳年上の南さんを応援するため、広島市中心部のゴール地点で応援した。「灯火管制が敷かれた戦時中の夜でも川沿いをよく走っていた。区間賞のカップを宝物のように肌身離さず持っていた」と振り返る。

 三上さんによると、南さんは箱根駅伝出場を目指し42年に明治大へ進学。だが戦況の悪化で箱根駅伝は中断となり、その後、学徒動員された。たまたま休暇で帰省していた市中心部の鉄砲町の実家で被爆した。家の下敷きとなったものの、カップを持って逃げ、数日後、安佐郡口田村(現安佐北区)の三上さん一家の避難先に現れたという。

 広島商業学校(現広島商業高)1年生で建物疎開中に被爆し、意識がもうろうとする三上さんは、枕元に立った南さんから「握っていたら命が助かる」とカップを渡された。所属の九州の部隊へ戻ったとみられた南さんが、高熱で倒れ被爆8日後の14日に亡くなったと、後に父から聞かされた。

 三上さんは「カップを見れば、勇兄ちゃんがいたことを思い出してもらえる。一番の供養にもなる。私も高齢。記憶を引き継いでもらえる人に託したい」と願っている。

(2017年8月3日朝刊掲載)

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