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非人道性 表現に心砕く 原爆裁判資料 核禁条約への礎

 1963年に東京地裁で判決が下された原爆裁判の当時の資料が見つかった。裁判の象徴ともなった原告の被爆者の書簡をはじめ、原告代理人を務めた三原市出身の故松井康浩弁護士が残した資料からは、被爆地の惨状を基に、原爆投下が国際法違反だと司法に証明を挑む関係者の苦心が伝わる。半世紀余りを経て、核兵器の非人道性に危機感を抱く各国の賛同で核兵器禁止条約が制定され、その礎になった原爆裁判の記録に光が当たりつつある。(水川恭輔)

 段ボール1箱分の資料には、裁判を呼び掛けた故岡本尚一弁護士と松井弁護士が交わした文書が10通以上ある。「(準備書面草案で)『強力な破壊力』とあるのは少し弱いから『特殊加害影響力による超残虐な鏖殺(おうさつ)を生ずること』という風に」(57年4月25日付岡本さんの書簡)などと、放射線被害を含む非人道性をいかに表現するかに心を砕いた様子がうかがえる。

 原告となった広島の被爆者、下田隆一さんについて訴状は、腹、背中のケロイドの化膿(かのう)や肝臓障害で職に就けず「一家無収入で、辛うじて生命を保っている」と記す。判決前の下田さんの書簡では「体の具合はあまりよくない。原爆症と診断されました」。判決の翌64年、慢性肝炎で65歳で亡くなった。「訴えは苦境をさらして立ち上がった下田さんたちがあってこそ」。資料を受け継ぐ日本反核法律家協会事務局長の大久保賢一弁護士(70)は話す。

 法廷では、原爆投下直後に米国へ「違法」と抗議した政府が一転、「原爆使用を規制する法がなかった」と争った。判決は国への賠償請求を棄却したが、原爆投下は国際法がいう無差別攻撃と、不要な苦痛を引き起こす兵器使用の禁止に反するとした。中国新聞社の記者時代に取材した平岡敬・元広島市長(89)は「希望を見いだせる、勇気ある判決だった」と振り返る。

 平岡さんは市長在任時の95年、核兵器の違法性を巡って国際司法裁判所(ICJ)で陳述した際も原爆裁判の論理構成を参考にした。ICJは勧告的意見で核使用・威嚇は「一般的に国際法違反」とし、禁止条約制定へ機運が高まった。「禁止条約へつながる具体事例の原点として若者に知ってほしい」と裁判の歴史的意義を強調する。

 判決後、黒金泰美官房長官(当時)は記者会見で「核兵器の使用を禁じる国際協定が存在すれば原爆投下は違法といえるが、協定のない場合違法とはいえない」と国の姿勢を語った一方、「禁止に向かって努力する」と言った。

 禁止条約ができ、国は当時の説明との整合性も問われるが、法務省は「当時の国の主張が分かる書面は残っていない」と説明。東京地裁は「保存期限が過ぎ現存は判決文だけ」とする。

 松井弁護士の資料には準備書面、国の答弁書など当時の裁判資料がほぼ一式そろう。反核法律家協会は資料のデジタル化を進めるなどして、裁判の意義の継承を図る。

(2017年8月3日朝刊掲載)

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