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社説・コラム

『想』 川越厚 人生を尊重する医療

 父の手記によれば、原爆投下の日、父は迫りくる猛火の中で死を覚悟し、泉邸(現縮景園、広島市中区)の裏に避難していた。突如起こった大旋風で、知人から命を託された赤ちゃんと祖母とともに京橋川に吹き飛ばされたが、奇跡的に皆命を取り留めた。しかし、託された赤ちゃんも母の疎開先の三入村(現安佐北区)でほどなく衰弱死した。祖母も急性原爆症になり、9月に他界した。

 僕は医師で、東京で在宅医療専門のクリニックを開いている。原爆投下から71年たったある朝、中学高校時代を過ごした広島の街に久しぶりに立っていた。仕事柄、僕にとって死は特別なことではない。しかし、その朝に改めて思いをはせたのは、やはり「人の死」だった。瞬時にして焼き殺された人々、火炎の中を逃げまどい、死んでいった同胞たち。その時父は何を感じたのだろうか。

 父は43年前に心筋梗塞のため死亡した。7年間の軍隊生活を送り、戦地を巡ってきた父。手記は残したが、原爆について口を開くことはほとんどなかった。語るときは、「戦地と違って、一般の人がようけ死んどった」と顔を曇らせていた。

 僕は30年弱の間に2千人を超えるがん患者を自宅でみとった。父の言葉を借りればその数は「ようけ」である。半数の患者が、病院から自宅に療養の場を移してから1カ月以内に亡くなるので、慌ただしい死である。僕はほぼすべての患者またはその家族に初めてお会いしたとき、1時間から1時間半、いろいろな話を伺っている。

 医が無力になる死が迫る場面で、一人一人の命と人生を最大限尊重する。その人の生と死に、真摯(しんし)に向き合っているつもりだ。医師冥利(みょうり)に尽きる時間でもある。本来、人の生と死はこのように大切に扱われるはずのものなのだ。

 古希を迎えた今、人の死はまさに千差万別だと思う。ただ、今も地球上に大量破壊兵器で瞬時に絶たれる多くの命があることに、心を痛めている。(医療法人社団パリアン クリニック川越院長)

(2017年8月4日セレクト掲載)

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