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遺筆を基に妻子が出版 島根から動員 被爆の惨状切々 資料館などに寄贈

 原爆の日を前に、原爆資料館(広島市中区)の情報資料室に1冊の新しい被爆体験記が置かれている。2011年1月に79歳で亡くなった出雲市の難波朝茂さんが、学徒動員された広島で見た惨禍を書き留めた記録。死後に妻子4人がまとめ直し、自費出版した。「想像を絶する経験をありのままに伝え、戦争への心のブレーキに」。家族で受け継いだ願いを込めている。(西村萌)

 「黒焦げの死体がいっぱいあり、その周りを逃げ惑う市民の姿はまさに地獄絵図」「(女性が)子どもを背負い、着ていた服はほとんど焼けてぼろぼろになり、半狂乱になり走っている姿は今も脳裏に焼き付いて離れない」…。原爆が落とされた8月6日の克明な描写が続く。

 島根県温泉村(現雲南市木次町)出身の難波さんは、技術者養成のため動員された広島市舟入本町(現中区)の日本発送電中国支店(現中国電力)技能者養成所で14歳の時に被爆。爆心地から約1・6キロで、膝や肘に傷を負った。

 「伝えてあげたいあの日のこと」と題した本は、1945年8月6日の朝に猛火の中、集合場所と決めていた楽々園(現佐伯区)まで逃げ、10日後に古里へ戻って家族と再会するまでを記す。被爆数日後に楽々園に大やけどで運ばれてきた同郷の友人を亡くし、「どうしてやることもできず、ただ涙にくれた。原爆の犠牲になったのだと思うと、悔しく、とてもかわいそうでならない」とつづる。

 難波さんは地元の子どもたちに証言し、60歳ごろから体験をメモやノートなどに書き残していた。遺品を整理した妻順子さん(86)が見つけ「どうしても処分できなかった」。おととし、同居する長男の裕治さん(59)、長女の篠原さえ子さん(57)=津市、次女の坪内幹子さん(52)=広島市東区=と出版準備を始めた。

 昨年7月下旬には4人連れだって、難波さんがあの日歩いただろう、舟入本町から庚午橋を経て五日市小に至る道のりをたどり、風景を写真に収めた。友人の墓や、帰郷時に降り立ったJR木次線出雲八代駅(島根県奥出雲町)も訪ねた。

 さえ子さんは「あの日の道のりを想像し、父の体験を身近に感じた」と話す。本は、孫となる子どもたちが読みやすいよう手直しし、原爆資料館から提供を受けて被爆者が描いた絵を載せた。昨年12月、七回忌の法要に合わせA5判、59ページの本を完成させた。

 130部を刷り、多くの人に読んでほしいと、資料館と広島市公文書館に贈った。被爆72年の夏を迎え、裕治さんはこう言う。「悲惨な出来事を繰り返さないためにも、被爆者の思いを形にして残すのが、2世や3世の仕事だと思う」

(2017年8月5日朝刊掲載)

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