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旧中島本町 あの日の手記  三重県の遺族代表 思い携え式典

 原爆投下を挟んで、広島市の中島本町(現平和記念公園)に暮らした井上雅美さん(2000年に74歳で死去)が手記を残していた。「あの日」に壊滅するまで被爆死した両親と営んだ暮らしや、戦後の苦難をつづる。めいの鈴木理恵子さん(54)=津市=が5日、手記を携えて公園を訪れた。「平和への願いを引き継ぐ」。三重県の遺族代表として6日の平和記念式典に臨む。(長久豪佑)

 井上さんは広島鉄道局に勤めていた19歳の時に被爆。6年後の1951年に著した手記は、繁華街だった同町が映画館や商店でにぎわう様子で始まる。

 その一角に父喜三郎さん=当時(43)=が経営するカフェがあった。45年8月6日の朝。雅美さんは母キヌヨさん=同(38)=のため岡山へ桃を買いに。「行ってきます」「早う帰りんさいよ」。何げないやりとりが最後の会話になった。

 午前7時40分に汽車で広島駅を出たが、その日のうちに広島に戻った。こう記す。「建物も火炎に包まれ、不気味に映えている。(中略)家の位置にたどりついた。なにもない」。親類方に疎開していた当時5歳の弟公治さん(96年に56歳で死去)の無事を確認後、連日、カフェ兼自宅跡を掘り返した。「弟を抱え、前途が真暗である。(中略)泣いて、泣いた」

 兄弟2人の生活。跡地にバラックを建て、公治さんを養った。被爆5年後、関西地方に転居したところで回想を終え、「再びかかる惨状の起こらないよう」と手記を閉じている。兄弟は生前、体験を家族に語ろうとしなかったが、雅美さんは手記を当時の広島大原爆放射能医学研究所に提供していた。その際、69年にA4判の日記帳へ92㌻にわたって転記し保管していた。

 公治さんの長女である鈴木さんが、式典参列を雅美さんの長男に報告した際に手記の存在を知り「一緒に参列を」と託された。読んで、父たちの過酷な体験に初めて触れた。「もっと聞いておけばと後悔した。私に何ができるかと強く考えるようにもなった」

 鈴木さんは学童保育指導員を務め、父の死を機に、毎年8月、児童に戦争の悲惨さを伝えている。「思いを次世代につなげるため、子どもたちに父や伯父の体験を語り継ぎたい」。カフェがあった原爆慰霊碑そばに立ち、誓った。

(2017年8月6日朝刊掲載)

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