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亡き姉に核禁条約報告  日本被団協・藤森さん 遺品に廃絶誓う

 先月、米ニューヨークの国連本部で核兵器禁止条約制定を見届けた日本被団協事務局次長の藤森俊希さん(73)=長野県茅野市=が5日、広島市中区の原爆資料館で、市立第一高等女学校(市女、現舟入高)1年で被爆死した姉敏子さん=当時(13)=の遺品のかばんと対面した。「72年かかったけど禁止条約ができたよ」。核兵器廃絶への一歩を「報告」し、さらなる行動を誓った。(水川恭輔)

 「子どもの頃、8月6日に母が涙ながらに見せてくれた。戦争、原爆さえなければ、中に教科書やノートを入れてもっと勉強できたはずなのに、むごい…」。藤森さんは、茶色い布製かばんを見つめると、しばらく声を詰まらせた。2011年に遺族で寄贈。見るのは翌12年の新着資料展以来、5年ぶりという。

 あの日、今の平和記念公園(中区)南側の建物疎開作業に動員されていた市女の1、2年541人は全滅。敏子さんの遺骨は見つからなかった。かばんは、作業現場近くの寺院の土塀の下で母カスミさんが見つけ、02年に98歳で亡くなるまで大切にしていた。

 当時1歳4カ月だった藤森さんは、爆心地から2・3㌔で被爆して大けがを負った。ことし3月の条約交渉会議の初日、被爆者の代表として演説に立ち、市女の被害に触れて核兵器の非人道性を訴えた。原爆で家が焼けて遺影がなく、肖像画でしか見たことのなかった敏子さんのことも思い浮かべた。先月7日にも再度、国連本部を訪れ、条約採択の場面を感極まった表情で見届けた。

 原爆の日に合わせ、報告の気持ちを抱き、2日に広島入り。この日、中区での胎内被爆者の集会では廃絶を目指すヒバクシャ国際署名への協力を呼び掛けた。

 「条約ができて万歳で終わらせてはいけない」と今、自らに言い聞かす。条約交渉は核兵器を持つ9カ国だけでなく、日本も参加せず、加盟の意思も見せない。「廃絶へのさらなる努力を誓う『8月6日』にしたい」。6日、敏子さんたち生徒666人と教職員10人の名前を刻む市女の碑前である慰霊式に参列する。

(2017年8月6日朝刊掲載)

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