×

連載・特集

核廃絶・安保 腐心の1682日 在職戦後2位 岸田外交を回顧

被爆地発信に尽力 禁止条約対応 失望の声

 岸田文雄氏(広島1区)は2012年12月から務めていた外相を今月3日に離れ、初の自民党三役となる政調会長に就いた。外相としての在職期間は1682日で、戦後2位の長さだった。外交を所管する被爆地選出の閣僚として、「非核」にどのように取り組んだのか。歩みを振り返る。(田中美千子、野崎建一郎)

 「核軍縮に積極的に取り組む」。12年末の外相就任会見で岸田氏はそう宣言し、核兵器の削減、廃絶に向けて重点的に取り組む姿勢を明確にした。

 翌13年には早速、独自性を示した。4月にオランダであった核兵器を持たない10カ国(現在12カ国)による軍縮・不拡散イニシアチブ(NPDI)外相会合で、自ら発案した「ユース非核特使」制度を公表。若者が核兵器の悲惨さを発信するのを後押しする姿勢をアピールした。

指導者訪問実現

 各国の政治指導者の被爆地広島訪問も実現した。14年4月のNPDI外相会合は広島で開催。主要国首脳会議(伊勢志摩サミット)に先立つ外相会合も16年4月に広島であり、核兵器を持つ米国、英国、フランスの現職外相が初めて被爆地に立った。同5月のオバマ前米国大統領の広島訪問実現の背景にはケネディ駐日大使たちから信頼を得た岸田氏の尽力があったとされる。

 ただ岸田氏が外相を務めていた間、日本政府は目に見える核軍縮の進展を引き出せなかった。

 核軍縮に熱心なオーストリア、メキシコなどが発表した核兵器の非人道性とその不使用を訴える声明に対して3度にわたり参加を拒んでいた日本は、岸田氏の下で方針転換し、13年10月に同趣旨の声明に初めて名を連ねた。しかし、これらの国が16年10月、国連総会で核兵器禁止条約の制定交渉の開始決議案を出すと、日本は反対票を投じ、被爆者を失望させた。

 その後、岸田氏は交渉への参加意欲を示したが、ことし3月の交渉会議初日に軍縮大使を送り、日本の立場を演説させただけだった。交渉不参加を貫き、7月に採択された禁止条約を支持しない考えも示した。

妙案を出せるか

 核軍縮を引っ張る姿勢を示すためかことし5月、オーストリアであった核拡散防止条約(NPT)再検討会議の第1回準備委員会に出席し、核保有国、非保有国双方の専門家で軍縮策を話し合う「賢人会議」の開催を打ち出した。ただ、そこで妙案が編み出せるのかは不透明だ。

 岸田氏は14年、長崎市で核兵器使用を「(保有国は)極限の状況に限定するよう宣言すべきだ」と発言した。核兵器の役割を減らす策としての提言だったが、被爆者たちからは「核使用を容認した」と非難された。米国の核抑止力に頼る日本の安全保障の現実と、核廃絶を強く望む被爆者たちの思いとの間で、バランスを取ることに腐心し続けた4年8カ月だった。

  --------------------

日米外交に詳しい東京大大学院教授 西崎文子さん(58)

難しい立ち位置 思い見えず

 岸田氏の外相在任中、オバマ前大統領たち米国の政治指導者が被爆地を訪れたのは大きな意味があった。ただ日本政府が純粋に非核を目指し、被爆の実態を訴えようとしていたとは思えない。むしろ、日米関係の強固さや和解を印象付けたい、との意図が透けた。

 核軍縮も進まなかった。国際世論が核兵器禁止の方向に動く中、日本政府が米国の「核の傘」を求める姿勢はかえって際立った。オバマ政権は核兵器使用を核攻撃の反撃のみに限る「先制不使用」宣言を検討したが、核抑止力の弱体化を日本などが懸念したため、実現しなかったとされる。日本はトランプ政権移行後も、真っ先に米軍の抑止力提供を確認した。

 タカ派色の強い安倍政権にあって、岸田氏が広島選出の外相としての立ち位置を維持するのが難しい面はあっただろう。ただ強い思いがあれば、核軍縮に向けた明確な発信がもっとできたはずだ。「核保有国と非保有国の橋渡しをする」と言うが、具体的にどうするのかさえ見えなかった。

国際平和に関する調査・研究のNPO法人ピースデポ特別顧問 梅林宏道さん(79)

官僚を説得の理論足りない

 岸田氏が外相を務めた4年8カ月は、核兵器廃絶、核軍縮にとって非常に重要な時期だった。単にそれを訴えるだけでなく、非人道性という新たな切り口によって法的禁止という実質を進めていこうとする期間だったからだ。

 しかしその間、日本政府は核兵器の非人道性を核保有国に主張して廃絶へ導く努力をほとんどしなかった。岸田氏は被爆地選出の外相だったので、役割を果たすことを期待したが、存在感を発揮できなかった。

 岸田氏は当初、「核兵器禁止条約」の制定交渉に参加する意向を示していたが、結局は会議に出ず、条約採決にも賛同もしなかった。在任中の言動を踏まえると核廃絶への思いはあっても、官僚を説得する理論や、リーダーシップが足りなかったのではないか。

 根本には、日本の安全保障を米国の「核の傘」に頼っている現状がある。すぐに「核の傘」から出るのは困難でも、中間的なステップは何通りもあるはずだ。岸田氏は、そうした創造的施策も打ち出せなかった。

<岸田文雄氏が外相在任中の核軍縮を巡る主な動き>

2012年
  12月 岸田文雄氏が外相に就任
  13年
   4月 オランダ・ハーグで軍縮・不拡散イニシアチブ(NPDI)外相会      合。岸田氏は「ユース非核特使」制度の開始を発表▽スイス・ジュネ      ーブでの核拡散防止条約(NPT)再検討会議第2回準備委員会で、      核兵器の非人道性とその不使用を訴える共同声明が発表され、80カ      国が賛同。同趣旨の声明は3回目で、日本は加わらず
  10月 米ニューヨークでの国連総会第1委員会(軍縮)で、125カ国が核      兵器の非人道性とその不使用を訴える4度目の共同声明を発表。日本      も初参加
  14年
   1月 長崎市での講演で、岸田氏が核兵器使用は「極限の状況に限定すべき      だ」と発言。被爆者たちが反発
   4月 広島市でNPDI外相会合
  15年
   5月 米ニューヨークの国連本部でNPT再検討会議が最終文書を採択でき      ずに閉幕
  16年
   4月 主要国首脳会議(伊勢志摩サミット)に先立つ広島市での外相会合
   5月 オバマ米大統領(当時)が現職の米大統領として初めて広島を訪問。      安倍晋三首相と岸田氏が同行
  10月 国連総会第1委員会で核兵器禁止条約の制定交渉開始を決議。日本は      米ロなどの核保有国と共に反対
  12月 オバマ、安倍両首脳が米ハワイ・真珠湾を訪問。岸田氏も同行
  17年
   3月 核兵器禁止条約の制定交渉会議が米ニューヨークの国連本部でスター      ト。日本政府は初日に反対理由を述べ、実質交渉には不参加
   5月 オーストリア・ウィーンでのNPT再検討会議第1回準備委員会で、      岸田氏が演説。「賢人会議」開催を表明
   7月 核兵器禁止条約が制定交渉会議で採択される。岸田氏は条約を支持し      ない考えを表明
   8月 内閣改造・自民党役員人事。岸田氏は外相を離れ、自民党政調会長に      就任

(2017年8月13日朝刊掲載)

年別アーカイブ