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連載・特集

『生きて』 医師・広島大名誉教授 鎌田七男さん(1937年~) <2> 記憶の「故郷」

「満州国」で生まれ育つ

 あまり自分からは口にはしませんが、生まれたのは「満州奉天」、今の中国瀋陽です。男7人の末っ子なので七男(ななお)と名付けられた。次男の満洲生(ますお)は大正12(1923)年の生まれですから、それ以前に、両親は長男を連れて鹿児島から満州へ渡っていたわけですね。

 さかのぼれば、曽祖父は、西南の役、歌にもなった田原坂の戦い(1877年)で倒れ、西郷隆盛が眠る南州墓地(鹿児島市)にお墓があります。父政吉は明治23(1890)年の生まれで、現在は日置市となる薩摩半島の伊作村の出身です。次男だったので農地を継ぐことができない。当時の流れで満州へ行くことになったと聞いています。

 物心がついた時は、奉天城外の日本人町「花園街」で暮らしていました。長兄は病死していたので8人家族。国策の「満洲飛行機会社」の職員家族が多数住んでいた。おやじは電気工事の会社を営み、鹿児島出身の居候が常時いました。われわれ兄弟の子守は、中国人女性とその娘がしてくれました。見渡す限りのジャガイモ畑を抜けて城東小に通った。僕は同小の13期になるらしい。

  戦前は主に「満洲」と表記した中国東北部に1932年3月1日、建国宣言したのが「満州国」。日本の関東軍が実質的に統治し、在満日本人は日本の敗戦時で約155万人とされる
 45年8月の初め、城東小でも学童疎開があり、兄の五男(いつお)や六男(むつお)と僕は、母そめと一緒に、かなり奥地の日本人開拓農家に疎開しました。日本が負けたのが分かり、奉天に戻ったのは10月ごろ(「満州国」は45年8月18日に消滅)。城内に預けていた荷物を取りに行ったら、信用していた日本人が手のひらを返しました。

 花園街の家には、おやじと三男の三郎がやきもきしながら待っていました。ソ連軍がいなくなったと思ったら、八路軍(中国共産党軍)がやって来た。何者によるのかも全く分からない公開処刑も見ました。

 通学で見たジャガイモの花と、おやじを亡くして母や兄たちと引き揚げのため奉天駅に向かって渡った川の光景、「満州」といえば、それだけは脳裏に焼き付いています。

(2017年7月26日朝刊掲載)

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