×

連載・特集

『生きて』 医師・広島大名誉教授 鎌田七男さん(1937年~) <3> 引き揚げ

遺骨を抱いた母と共に

  日本が敗れた翌1946年夏、「満州奉天」(中国瀋陽)から両親の郷里である鹿児島へ向かった
 生まれ育った奉天の記憶は、半ば消えていますね。やはり思い出したくないからでしょう。父政吉を失った。母そめは遺骨を抱いて、背にはリュック、末っ子の僕を含め6人の息子と身一つの引き揚げでした。

 引き揚げは、被爆体験とは違うけれど、苦しみという意味では同じように大変なもの。それで、若い時の診療から被爆者を受け入れられたというか、相手の気持ちに共感し、理解する。そうした素地になったのは間違いないですね。

 「満州開拓移民団」や残留孤児の悲劇にみられるように、奉天も大混乱に陥りました。自宅があった城外の日本人町「花園街」には、ソ連軍の若い兵士が機関銃を手にいろいろあさりに来る。おやじは体が弱いのにウオッカを一緒に飲んだ。逃げてきた女性を匿える広さが、わが家にはありました。デマも飛び交った。商店街の主人らがうちに来て話し合っていたのを覚えています。

 電気工事を営んだおやじの考えだったそうです。花園街を当時20歳の兄三郎と電線で囲み、電流を流した。暴民の襲撃を防ぐためです。約2千人の日本人がいたらしい。三郎は電気コンロを作って城内で売り、わが家を支えました。

 おやじは結核を再発して46年5月6日、56歳で逝きます。死期を悟っていたのでしょう。病床の枕元に兄六男と僕を呼んで、「けんかをするなよ」と言い聞かせました。

 奉天から無蓋(がい)車に乗ったのは6月初めごろ。葫蘆(ころ)島(中国遼寧省)に集められて米軍の輸送艦に乗り、着いたのは山口・仙崎港。途中亡くなった人たちは海に落とされた。検疫で上陸は延び延びとなり、おやじの生家がある鹿児島県伊作町(日置市)にたどり着いたのは7月17日。11年後に亡くなる母の命日です。

 鹿児島弁は外国語のよう。向こうでは「標準語」でしたから。伊作小(47年に国民学校から名称変更)に編入すると先生が通訳です。山菜を採ったり、川や海で泳いだりした。古里はと聞かれれば、鹿児島ですね。とはいえ、兄たちは上から出稼ぎに行き、僕も中学3年で離れました。

(2017年7月28日朝刊掲載)

年別アーカイブ