×

社説・コラム

『私の学び』 広島女学院大学長 湊晶子さん

救われた命 「個」大切に

 3年前の春、広島女学院大の学長に就いた。家族の反対を押し切って東京から縁のない広島へ単身で移り住み、大学改革に全力を注ぐ。大病を患い、年を重ねても湧き上がるエネルギーの源には、72年前の戦争体験がある。

 終戦直前の1945年8月3日、疎開先の千葉県幕張地区で潮干狩りに向かう途中、米軍の機銃掃射に遭う。低空飛行の敵機から弾丸が飛び、周囲で次々に人が倒れた。でもなぜか13歳だった私だけ狙われなかった。ふと目が合った操縦席の米兵の目には、涙が光って見えた。

 2カ月前の6月には、千葉空襲にも遭遇。防空壕(ごう)で生き埋めになったが、「たまたま」入り口付近にいたから助け出された。「意味があって命が与えられたんだ」。直感的にそう悟り「国と国は戦争していても、あの人とは仲良くなれる。敵国アメリカに行って、和解したい」という思いに駆られた。

 東京女子大に進学後は渡米を夢見て英語を猛勉強。「辞書を食べるように」単語や熟語を詰め込み、国立国会図書館に通って欧米の歴史学者や哲学者の講演を録音したレコードを繰り返し聞いた。55年に大学を卒業した翌年、フルブライト奨学金を得て、ついに米国留学を手にした。

 ホイートン大大学院やハーバード大で神学を学んだ5年7カ月の米国生活は、公民権運動の最盛期と重なる。親友だった黒人女性がレストランで入店を拒否されたのを目の当たりにした直後、シカゴ市の街頭でマーチン・ルーサー・キング牧師の演説を聴いた。人種や国境を超えて平等を説くキング牧師の理念が心に響き、その後の指針となった。

 産休や育児休業制度がない時代に3人の子を育てながら仕事を続け、どんな逆境にも負けない粘り強さを身に付けた。末の子がまだ小学生だった頃に夫が他界。それでも「チャンスは戻らない」を信念として仕事の幅を広げ、質を高めることに努めてきた。

 戦争体験に導かれた半生を振り返り、傘寿を迎えて被爆地へ招かれたのは「私の最後の使命」と受け止める。国際社会で存在感が薄い日本に危機感を抱く今、ヒロシマの地で、集団に流されない「ぶれない個を育てる」教育に身をささげる覚悟だ。(聞き手は桑島美帆)

みなと・あきこ
 1932年仙台市生まれ。兵庫県立夢野台高、東京女子大卒。東京基督教大、東京女子大教授などを経て2002年同大学長。14年から現職。瑞宝中綬章やペスタロッチー教育賞を受けた。著書に「女性を生きる」(角川書店)など。

(2017年8月28日朝刊掲載)

年別アーカイブ