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社説・コラム

『潮流』 ある被爆者の旅

■ヒロシマ平和メディアセンター長 岩崎誠

 「祖父が書いた記事のコピーがあれば…」というメールが届いた。8月1日に96歳で他界した二井正志さんという広島の被爆者の孫からだ。1970年に本紙夕刊に故人が寄せた連載「平和巡礼18万キロ」を読みたいという。

 ヒロシマ平和メディアセンターのウェブサイトは過去の原爆関連記事のタイトルを載せる。平和活動をしていたと聞いた祖父の名をネットで検索して知ったそうだ。恥ずかしながら覚えていない。資料室で読み、引きつけられた。こんな人もいたのだ、と。

 核兵器廃絶を訴えるためアジア、欧州、米大陸の46カ国を3年半かけて、たった一人で車で回ったルポである。陸軍の通信隊にいて広島の二葉の里で被爆したという。米カリフォルニア生まれで戦前に帰国したというから語学力には自信があったのだろう。

 その熱意はどこから出たのか。経営する工場をたたみ、被爆の惨状を示す数々の写真と英文の刷り物を携え横浜港から出発したのは66年10月。インドでは歓迎され、インディラ・ガンジー首相と対面するが、なにぶん冷戦時代だ。東欧では旧ソ連のチェコ軍事介入による緊張に身を置く。

 東西分断の当時の西ドイツで開いた集会では核賛成派と反対派の激論もたびたびだった。愛車には「日本人帰れ」の落書きも。一方で核を持つ英仏両国では被爆証言への反響に手応えを感じたという。

 平和巡礼といえば米国人のバーバラ・レイノルズさんと被爆者らが世界を回った62年と64年の旅が知られる。だが名もなき市民が私財を投じ、約1500回にわたって体験を語り続けた波瀾(はらん)万丈の旅はその後、歳月に埋もれる。

 「訴えはまだ足りない」。連載の最終回の言葉は現在の被爆地の思いに通じる。コピーを送ると「故人の遺志を継ぎ、被爆3世として少しでも平和活動に携わりたい」と、心強いメールをもらった。

(2017年8月31日朝刊掲載)

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