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社説・コラム

『論』 戦争の始まりと終わり もし、伝わっていたのなら

■論説主幹 佐田尾信作

 これは特定秘密保護法が審議されていた2014年1月の衆院予算委員会の一幕だ。民主党の篠原孝が質問に立ち、内閣府特命担当相の森雅子が答えている。

 篠原 戦争をこれから始める。あるいは終わるといった事実は特定秘密に当たるのでしょうか。

 森 私は戦争は二度と起こしてはならないとの立場でありますから、戦争が起こるという前提に立った質問にはお答えできません。

 篠原 過去のことでいいのです。お答えください。

 森 特定秘密のことは、これからの問題ですから、過去のことについてはお返事できません。

 そう質問をかわす森に対し、長野1区選出の篠原は、1945年8月25日に旧満州(中国東北部)で起きた長野県高社郷(こうしゃごう)開拓団の集団自決を取り上げた。日本の敗戦から10日後の惨事である。

 敗戦を知っていたら集団自決はなかったかもしれない、秘密でも何でもないことが伝わらなかったのはなぜか―。そう問いただし、首相安倍晋三も「きちんと終戦を知らせなかったのは大変な問題だ」と率直に認めている。

 こうしたやりとりを、この夏出版された元毎日新聞記者小林弘忠の「満州開拓団の真実」(七つ森書館)で知った。名簿に基づく小林の調査によると、高社郷では団員716人のうち576人が異郷で果てた。自決と明記されている人は272人に上り、うち妻は132人いる。5歳以下の死者は116人とある。親や大人と、死を共にしたのではないか。

 惨事の背景の一つとして、45年8月9日の旧ソ連軍侵攻に関する情報が秘匿され、関東軍(旧満州の日本陸軍)から開拓団に知らされなかったことがある。事態を知った時には、もはや関東軍に見捨てられていた。開拓団は「人間の盾」にされたといえよう。

 もう一つ、開拓団の男手が根こそぎ関東軍に現地召集されていたこともある。残された丸腰の女性や子ども、老人たちがソ連軍や暴徒に包囲されたまま、前途を悲観したことは想像に難くない。小林の言葉を借りれば「死の結束」を固めるしかなかったのだ。

 集団自決は広島県の高田開拓団でも起きている。ここには敗戦の年までに396人が入植した。74年に本紙編集委員河田茂が生還者の証言をまとめた20回の連載が最も詳しい。91年に私の旧満州取材に同行してくれた安芸高田市の元会社社長宮地文雄は、この集団自決で妻子を失っていた。

 高田開拓団は45年8月15日が暮れても誰も敗戦を知らされず、暴徒に囲まれて初めて変事に気づく。うち国民学校に籠城した20人は脱出を諦め、8月18日、1人の団員が持っていた日本刀で全員自決した。宮地の妻子もいた。雇われていた現地の中国人は「死ぬな」と叫んだが、遅かった。別の場所でも6人が自決した。

 同じ日、宮地は関東軍守備隊から復員し、開拓団に帰ろうとしていた。そして10日後、変わり果てた妻子を見つける。日時の隔たりは大きいかもしれない。それでも戦争が終わって夫たちが帰ってくると分かれば、残された家族も少しは希望を持っただろう。

 そもそも、敗色が濃厚になってもなお、開拓団を送り込むようなことがあってはならなかった。「王道楽土」「五族協和」という大義名分が色あせているにもかかわらず、事実を伏せて庶民を駆り立てた国策である。それに追随した報道にも責任はあろう。

 むろん、こうした悲劇が繰り返されるとは思わない。今の日本は軍事力で版図を広げる国でもない。しかし、国家が重大なことを秘密にすれば、そのつけは必ず国民に回ってくるということを、この苦い歴史は示している。

 ことし3月の本紙「こだま」欄で、尾道市の73歳の女性が「声をソ連兵に聞かれてはならない。ぐずる私は何度も海へ投げられかけ、妹は喉元にカミソリを当てられる」と旧満州からの逃避行を思い返していた。こうした言の葉一つも、苦い歴史を繰り返さぬための「たが」になると信じる。(敬称略)

(2017年8月31日朝刊掲載)

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