『記憶を受け継ぐ』 登世岡浩治さん―弟の最期「ありがとう」
17年9月4日
登世岡浩治(とよおか・こうじ)さん(87)=広島市東区
憎しみ乗り越え 相手敬う心の大切さ説く
「思い出すには余りにつらく恐(おそ)ろしい。被爆から約50年間、黙(もく)して語らず、でした」。浄土真宗本願寺派(じょうどしんしゅうほんがんじは)の安楽寺(広島市東区)の前住職、登世岡浩治さん(87)は今も原爆資料館に入ることができません。それでも被爆者、そして遺族として証言を始めたのは「決して繰(く)り返(かえ)してはならない」という思いからでした。
登世岡さんは姉3人、12歳だった弟純治(じゅんじ)さんとの5人きょうだい。旧制崇徳(そうとく)中(現・崇徳高)の4年生でした。戦争中で授業はほとんどなく、爆心地から約4キロの工場で鉄をバーナーで切る作業に動員されていました。
8月6日の朝も工場にいました。「雲間から差したお日さまがやけに明るい」と思った瞬間(しゅんかん)、砂ぼこりが立ちこめました。外に飛び出し空を見ると、巨大(きょだい)な雲が上がっていきます。「広島が大変だ。家に帰れ」と指示され、作業は中止になりました。
沿道の家々が燃えさかる中、命からがら進みました。己斐(こい)駅(現・西区)付近で黒い雨が降り、ずぶぬれに。現在のJRの線路づたいに歩き、ようやく帰宅できました。爆心地から約2・1キロ。本堂はひどく壊れていました。
旧制広島市立中1年だった純治さんは戻っていませんでした。爆心地に近い小網(こあみ)町(現・中区)で建物疎開(そかい)作業に出ているはずでした。捜し出そうと、水を求める負傷者(ふしょうしゃ)や死体が横たわる道を母綾子さん(当時46歳)と歩きました。しかし、猛烈(もうれつ)な熱風のため前に進めません。夕方ごろ、近くの民家で保護されていると知りました。顔も分からないほど重いやけどを負っていました。
懸命に家を目指していたのでしょう。看病していると「あと何メートル?」とうわごとを言います。登世岡さんは「あと1メートルだ。頑張れ」と励ますことしかできません。危篤(きとく)になった純治さんの枕元に家族が集まり、お経(きょう)を読んだとき「ありがとう」とつぶやいたのが最後の言葉になりました。8月12日に亡くなりました。
原爆で崩(くず)れ落ちた天井(てんじょう)の板で父界雄(かいお)さん(当時49歳)がひつぎを造り、近くの牛田公園で火葬(かそう)しました。「わが手で弟を焼くとは。涙が止まらなかった」。崇徳中では、学徒動員された下級生ら500人以上が犠牲に。安楽寺の門徒も年末までに728人が死にました。「知人、友人らの死を思うといまだに堪えがたい気持ちになる」。記憶(きおく)を封印しました。
変化の兆しは、純治さんの五十回忌でもあった1994年。広島日タイ友好協会の平和交流で現地を訪れた際、断り切れず、黒い雨を浴びた体験などを話しました。「被爆後、お体は大丈夫ですか」と親身な質問を受け、心にしみました。
かわいい弟を奪われ、かつて「米国に復讐(ふくしゅう)する」と憎(にく)しみを募らせた登世岡さん。大学で仏教を学ぶうち、相手を敬(うやま)う心こそが平和の基本だと信じるようになりました。日本も間違(まちが)った戦争をした、とも思い至(いた)りました。98年から本堂を訪れる小学生に体験を語り始め、平和の大切さを説いています。
それはことし、思いがけない形で世界に発信されました。広島市役所の募集(ぼしゅう)に応じて3年前に書き送った手記の一部が、平和記念式典で松井一実市長が読み上げた「平和宣言」に盛(も)り込まれたのです。「一人一人が生かされていることの有(あ)り難(がた)さを感じ、慈愛(じあい)の心、尊敬の念を抱いて周(まわ)りに接していくことが世界平和実現への一歩」。多くの人にかみしめてほしいと願っています。(金崎由美)
私たち10代の感想
むごい体験 伝えていく
純治さんはやけどのため、ベルトのバックルでしか判別(はんべつ)できない姿(すがた)で発見(はっけん)されました。私と同じ学年です。どれだけ痛かったことでしょう。6日後に亡くなり、登世岡さんは自分たちの手で火葬(かそう)したといいます。私だったら、あまりにつらくてその場にいることができません。誰(だれ)もそのようなむごい経験(けいけん)をすることがないよう、登世岡さんや被爆者が語ってくれた体験(たいけん)を未来に伝えていきます。(中1桂一葉)
苦しみ抜いた先の言葉
登世岡さんは純治さんが亡くなった時、「米国に復讐(ふくしゅう)をして敵を取る」と誓ったそうです。しかし戦後、平和な世界を求める気持ちの方が強くなっていきました。一度心に刻まれた憎しみを乗り越えることは、容易(ようい)でなかったはずです。登世岡さんは「誰もが持つ和の心が平和をつくる」とも私たちに語りました。苦しみ抜いた先に得たこの言葉を真摯(しんし)に受け止めたいと思いました。(高2上岡弘実)
(2017年9月4日朝刊掲載)