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社説・コラム

『私の学び』 落下傘で原爆の記憶を伝える 河田至さん

修学旅行生に未来託す

 原爆投下の朝に米軍機から落とされた落下傘の切れ端を使い、広島市を訪れる修学旅行生に講話をしている。原爆による風圧や温度を観測するため、米軍が計測器とともに投下したもの。惨禍を二度と繰り返さないために、未来を担う若い世代に原爆と戦争の記憶を伝えていきたい。

 中学校の数学教師として長年、同僚と平和教育に取り組んだ。合言葉は「教え子を二度と戦場に送らない」。毎夏の平和学習では、1年生は開戦から原爆投下まで、2年生は加害の歴史、3年生は現代の世界情勢と核問題をテーマに、未来のために何ができるかを生徒に問い掛けてきた。

 教員同士の平和研修で絵本「まっ黒なおべんとう」の作者児玉辰春さん(89)=佐伯区=に出会い、思いがより強まった。被爆者であり中学教員として体験を伝える児玉さんの姿を見て、「私もより多くの子どもに伝えたい」と考えるようになった。

 教員の時から、太平洋戦争で国内最大の地上戦があった沖縄県や、戦争末期に皇室や政府機関の移転先として建設が進んだ長野市の松代大本営などを訪れた。被爆者や戦争体験者が減る中、戦争を知らない私に何ができるのか。考えた末、遺物から学んだ歴史と向き合い、若い世代に継承する活動にたどり着いた。ライフワークにしようと、被爆60年の節目にあたる2005年3月、56歳で退職した。

 その直後、爆心地から1・8キロの民家で被爆した「ミサコの被爆ピアノ」に出合う。被爆2世でピアノを再生した調律師の矢川光則さん(65)=安佐南区=とともに06年1月、「被爆ピアノ・翼をひろげる会」を設立。修学旅行生向けの演奏会を始めた。多くの演奏家が、平和の音色を奏でてくれた。

 演奏会に合わせ、落下傘を使った講話をするようになった。全国の子どもたちが熱心に耳を傾けてくれ、平和の歌を合唱する姿を見るのは、私の活動の原動力になっている。修学旅行後に手紙を書いてくれる子もいる。

 広島市の公立小中学校が今年、8月6日の登校日を見送ったように、平和学習は岐路に立っている。被爆ピアノや落下傘には、子どもの多感な心に何かを訴え掛ける力がある。原爆や戦争の遺物と向き合い、語り掛けてくる平和への願いに耳を澄ませ続ける。(聞き手は栾暁雨)

かわだ・いたる
 1948年、呉市生まれ。広島大教育学部卒。中学教諭として世羅中(広島県世羅町)や白木中(広島市安佐北区)などで数学を教え、2005年に退職。06年に「被爆ピアノ・翼をひろげる会」を発足させた。修学旅行生や地元の飯室小(同)の子どもに、落下傘を使った講話をしている。安佐北区在住。

(2017年9月18日朝刊掲載)

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