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被爆 友28人の最期 元中学教諭が冊子 記録「生き残った義務」

 原爆投下1年後に出された、広島一中(現国泰寺高)の生徒らによる広島初の被爆手記集「泉―みたまの前に捧(ささ)ぐる」編集メンバーで元中学校教諭の浜田平太郎さん(82)=広島市西区=が、冊子「泉 第二集―原爆と私」を発行した。建物疎開などで被爆死した級友42人の最期を調べて、まとめた。(増田咲子)

 一中の3年だった浜田さんの級友は、爆心地から約800メートルの小網町(現中区)一帯の建物疎開中に被爆するなどして42人が死亡。「泉」は犠牲者追悼のため発行した。「第二集」は、亡くなった級友42人のうち、遺族や生き残った友人の証言などで消息の分かった28人の最期を記した。

 建物疎開に出ていた級友40人のうち、二十数人が己斐国民学校(現己斐小、西区)にたどり着いた。うち10人近くは、今の西区高須にあった学徒動員先の航空機部品工場「広島航空」まで避難した、という。

 遺族への聞き取りで詳細が新たに明らかになった人もいた。

 矢口幸由さんは己斐国民学校から自宅のあった横川(現西区)まで自力で戻り、避難先で家族と再会できたものの、8月11日に息を引き取った。顔は大やけどで目が見えなくなっていたという。このほか、「お父さん、お母さんと言いつつ事切れた」「母の手をしっかり握って、この世を去った」などと級友の最期をつづっている。

 あの日、浜田さんは病気休学から復学したばかりで、高熱が出て建物疎開を休んだ。長い間、助かったことに負い目を感じてきた。しかし「生き残った者として級友の最期を残し、伝える義務がある。追悼の気持ちでまとめた」と話す。

 古田町(現西区)の自宅にいた浜田さん自身の被爆体験や、県立広島第一高等女学校(現皆実高)1年で被爆死した妹の最期も載せている。B5判、74ページ。300冊印刷し、原爆資料館(中区)などに寄贈した。

「泉―みたまの前に捧(ささ)ぐる」
 原爆投下翌年の1946年8月1日に発行された広島初の被爆手記集。わら半紙にガリ版刷り、B5判、67ページ。県立広島一中(現国泰寺高)と、県立広島第一高等女学校(現皆実高)の生徒ら39人が、原爆の犠牲となった一中35学級(3年5組)の生徒を追悼して寄稿した。現存しているのは確認できる限り、原爆資料館(中区)にある1冊だけ。一中と第一県女の生徒は、今の西区高須にあった航空機部品工場に学徒動員で働いていた。

(2012年10月1日朝刊掲載)

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