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社説・コラム

『論』 南原繁と憲法 立脚点確かめる「北極星」

■論説委員 石丸賢

 お国自慢の料理や方言と並んで、地元の新聞に薫る息吹も旅先の楽しみである。先日訪ねた富山市で地元紙の北日本新聞をめくると、政治学者南原繁(1889~1974年)について1ページ特集を組んでいた。

 戦前から東京大で教え、戦後最初の総長を務めた。日本国憲法や教育基本法の制定に関わるなど、民主国家日本の礎を築いた一人でもある。

 南原は香川生まれで、富山県人ではない。内務官僚だった1917(大正6)年、同県射水(いみず)郡(現射水市)に28歳の官選郡長として赴任しており、それから100周年という記念の特集だった。

 わずか2年間の在任中、南原は射水平野の乾田化を緒に就け、人材育成のために全国唯一の農業公民学校や婦女会の設立を説いた。その恩義を今も忘れない、富山の篤実な土地柄がしのばれる。

 無論、それだけではあるまい。彼も携わり、戦後を支えてきた憲法が、かつてない荒波にもまれているからである。その生き方に今あらためて触れ、考える手掛かりを得ようとの思いも紙面にはこもっていたのではないか。

 とは言うものの、南原は憲法改正論者だった。「他日いま一度、日本国民自らの発想と文章によって書き直されることが必要であろう」と、論文「第九条の問題」に書いている。米軍占領下での制定を余儀なくされた日本国憲法を、仮の憲法と考えていた。

 ただ、改正すべき時期には確固たる一線を引いていた。いわく、「国際の冷戦状態が一先(ひとま)ず解消して、わが国土から外国の軍事基地や軍隊が撤去されて、日本が完全に自由独立となったときでなければならない(略)新憲法が掲げた理念に基づき、むしろ率先して、世界の完全軍縮と恒久平和の実現に努力することが、日本国民の任務ではないであろうか」。

 時流に迎合せず、一人一党の精神で考え、思うところを述べる。そんな南原の姿勢が今こそ求められているように思う。

 明治・大正期の思想家内村鑑三の門下、無教会主義のクリスチャンとなった南原はまた、歌人でもあった。戦時下に短歌ノートを人知れず書きため、戦後に刊行している。歌集「形相(けいそう)」である。

 太平洋戦争に突入することになる41(昭和16)年、「近衛内閣に与ふ」との詞書(ことばが)きに続けて、こんな一首が見える。<客観的実在性なきことがこの幾(いく)年(とせ)決断せらるるに吾はおそるる>

 証拠に基づかないフェイク(偽の)情報が飛び交う昨今の風潮と、どこか重なる。

 同じ年、その第3次近衛内閣が倒れると、東条英機が現役軍人のまま首相、内相、陸相を兼ねた。<一人(いちにん)に総理陸軍内務大臣を兼ぬこの権力のうへに国安からむか><あまりに一方的なるニュースのみにわれは疑ふこの民の知性を>

 例の特集ページで、娘の一人が亡き父の姿に触れている。「忍者の隠れ部屋のような書斎で仕事をしていた。真面目な人柄は家の内でも外でも変わることがなく、信念を持ち続けていた」。南原が「洞窟の哲人」と、教え子の間で異名を取ったゆえんだろう。

 歌集を「生の記録であり、魂の告白である」と自ら振り返った。学徒出陣によって教え子を戦場に送ったことは、とりわけ痛恨事だったらしい。しかし戦争政策の批判に自ら立たずして「国の命を拒んでも各自の良心に従って行動したまえ」とは言いかねたと、後に講演で明かしている。

 息を凝らし、「洞窟」から世情を見つめる―。理想と現実のはざまに心を焦がした戦時下の経験が、戦後を生きていく背骨となったに違いない。

 古来、動かぬ北極星を頼りに、人々は航海を続けてきた。自分は今、どこにいるのか。針路は、ずれていないか。国内外ともに不透明さを増し、歩むべき道を、ふと見失いそうになる。立脚点を確かめ、行く手を見定めるには北極星のような、よすがが欲しくなる。

 先の戦争で学び得たものは「剣をとって起(た)つ者は剣によって滅びる」。そう断じる南原の言葉の数々は、その一つになり得る。

(2017年10月19日朝刊掲載)

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