×

社説・コラム

『論』 イシグロ文学のまなざし 人間の尊厳を突き詰める

■論説主幹 佐田尾信作

 「へールシャム」と何度かつぶやくと、ヒロシマに似てくる。ともにHで始まり、同じ位置にsが出てくる。へールシャムは、ことしのノーベル文学賞に選ばれたカズオ・イシグロの2006年の小説「わたしを離さないで」に頻繁に登場する地名である。

 この二つの地名の重なりは、文芸評論家の加藤典洋による「見立て」だ。へールシャムは架空の地名、ヒロシマは実在する地名という違いがあるが、イシグロはどこまで意識したのだろう。

 長崎市生まれの英国人、イシグロは核戦争後を生きる人間を描こうとして何度か挫折した。その後、英スコットランドでクローン羊が誕生したことに着目し、遺伝子操作が普通に行われる時代を小説の舞台にしたという。

 「わたしを離さないで」は人類が死の病を克服し、平均寿命が100歳を超す世界である。だが、その裏では臓器を提供するための子どもたちがクローン技術によって育てられていた。へールシャムとは短い生を送る彼らの寄宿学校があった美しい田舎だ。

 現実の世界では、80年ほど前に原子物理学から生まれた核エネルギーが米国の原爆開発と広島・長崎への核攻撃につながった。今は地球上に1万5千発の核兵器が存在し、その威力を脅しに使う国家指導者は後を絶たない。

 一方、小説の世界では核の代わりに命が操作され、さらに国家に管理されている。科学者がひそかに「強化人間」をつくろうとする事件も起きて市民に恐怖を与える。高度な科学技術も時に制御不能になる、後戻りできなくなる、といった暗喩が、へールシャムとヒロシマの似た響きにあるとすれば興味深い。加藤の感覚も、そこに由来するのかもしれない。

 受賞を機に、イシグロ文学を巡る批評も拾い読みした。そうした「水先案内人」を得て分かったことがある。英文学者藤田由季美が文芸誌「水声通信」のイシグロ特集に一文を寄せている。

 藤田は「わたしを離さないで」を巡って、臓器提供という特異な点を差し引けば、これは普通の人の人生の現実と同じと言えるのではないか―と問う。クローンはあくまで物語の手法であって、人は誰しも与えられた運命を受け入れて生きている、というモチーフがその奥にあるのだろう。

 確かに子どもたちの保護官は次のような言葉を漏らす。

 <あなた方はひとつの目的のためにこの世に生まれてきて、未来は決定されているのです>

 だが、小説から陰惨な印象は受けない。クローンであっても子どもらしい教育を受け、教養と情操が培われる。まして人間なら、どの国に生まれたとしても生きている間は人としての尊厳が守られなければならない―。成長を遂げる国がある一方で、内戦やテロ、貧困のために人が人扱いされない国があまりに多い中、イシグロ文学にそんなまなざしを読み取ることもできるのではないか。

 イシグロにはクールな作家の印象があるが、英国の欧州連合(EU)離脱の決定には怒りをあらわにしたという。お互い自由に往来できる民主国家の集まりであるEUの成果を簡単に覆してもいいのか、英国は移民排斥の国に変質するのか、という危機感があったようだ。最新作「忘れられた巨人」の文庫版あとがきで、翻訳者の土屋政雄が紹介している。

 「忘れられた巨人」は6世紀頃の大ブリテン島(現在の英国)を舞台に、異なる民族が殺し合った憎しみの記憶を竜の吐く息が忘れさせるというファンタジーの形を取っている。だが、その竜を殺してしまったら…。小説で主役の1人の戦士はこう明かす。

 <もうおわかりでしょう。竜退治は、来るべき征服に道を開くためです>

 現実の世界でも、負の記憶を封印することで一つの共同体、一つの国家、さらにはEUのような統合体が成り立っているのだろう。とはいえ、向き合わなければならない記憶もある。イシグロの真意はどこにあるのか。先の大戦でアジア諸国に多大な犠牲を強いた日本にとっても避けて通れない重い主題だ。(敬称略)

(2017年10月26日朝刊掲載)

年別アーカイブ