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戦地の父気遣う手紙 安田高女の盛川さん「無念の形見」残る

再会待ちわび12歳で被爆死 広島祈念館に寄贈

 建物疎開に動員されて被爆し、遺骨が見つからないままの安田高等女学校(現安田女子中)1年生が1945年春、南方の戦地に赴いた父に送った手紙が国立広島原爆死没者追悼平和祈念館に寄贈された。4年たっても戻らぬ父を気遣う愛らしい中身で、唯一の形見として復員した父が戦後、大切に持っていた。(山本祐司)

 手紙を書いたのは盛川浩江さん(当時12歳)。国鉄に勤め、軍属として東南アジアに派遣された父剛輔さんが持っていた。

 「おかはりございませんか。私たち、みんな元気でくらしてゐます」。便箋に父を恋しがる気持ちを切々とつづる。帰りを待ちわびる自らを重ねたのか、かわいい犬の絵を書き添える。

 3歳上の姉で2014年に亡くなった松枝さんの手記が、追悼平和祈念館で公開されている。浩江さんは8月6日朝、五日市町(現広島市佐伯区)の自宅を出たまま行方不明になったという。

 母とともに必死に捜したが、見つからなかった。級友たちと一緒に爆心地近くで犠牲になったとみられる。手記には真っ黒になった子どもの遺体を見ては思わず「ひろちゃん」と駆け寄った母の姿が描かれる。

 剛輔さんは終戦後、広島に戻って娘のことを知る。そして手紙の隅に心境を書き加えた。「噫(ああ)許してくれよ」「浩ちゃんが悪いのではない、父ちゃんが悪いのだ」と。

 その父は1979年に77歳で、母も2005年に95歳で亡くなった。残された姉も南区の似島で遺骨が掘り出されたニュースに「妹も眠っていたのでは」と中国新聞に投書するなど、最後まで案じ続けた。

 少女が12歳まで確かに生きた証しである手紙は、浩江さんの弟が保管していたがこの夏、自宅にあるのを思い出した。保存状態が悪いことから親族で相談し、追悼平和祈念館に託すことにした。姉の長男鈴木一則さん(65)=廿日市市=は「無事で帰っても娘を失った父親の無念さはいかばかりだったか」と話す。

 姉の手記を収めた同じファイルに、手紙のコピーが今月から並んでいる。

手紙の全文
 お父さんその後おかはりございませんか。私たち、みんな元気でくらしてゐます。お父さんがそちらへ行かれたの時は、私はまだ四年生でしたね。二年したらかへってくる、私が入学する時は一っしょにつれて行ってやる、といわれたが、もう四年ぐらいたつではないか。なんと早いもんだらう。こゝに入れたる二つの人形は、私のおてせいよ。おまもり人形です。どうぞいつまでも、もっていて下さい。庭の小ばらが、今年はまんかいでした。大へんきれいでした。お父さんに一目みせてあげたいやうでした。このわん〳〵ちゃんはかわいゝでせう。ではお体にきをつけて下さい。さやうなら

(2017年10月30日朝刊掲載)

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