×

社説・コラム

社説 「世界の記憶」に朝鮮通信使 友好深めるきっかけに

 「誠信之交隣」は、江戸時代の儒学者で対馬藩に仕えて朝鮮通信使に同行した雨森(あめのもり)芳洲(ほうしゅう)の言葉である。互いに欺かず争わず、真実をもって交わる―と外交の心構えを説いた。異なる民族の相互理解を重んじる善隣の精神は、現代を見通していたかのようである。

 江戸時代、朝鮮王朝が日本に送った外交使節団、朝鮮通信使に関連する記録が、国連教育科学文化機関(ユネスコ)の「世界の記憶」に登録された。200年以上にわたって平和的な関係を築いた友好の歴史に光を当てる登録である。意義は大きく、喜ばしい。

 登録に向けた活動は、通信使にゆかりのある日本の自治体や民間団体でつくる朝鮮通信使縁地連絡協議会と、韓国の釜山文化財団が担ってきた。民間レベルの交流から芽を育み、手を取り合った共同申請が実を結んだ。市民同士の対話や相互理解が活発になれば、両国の友好関係を深めていく環境が整っていくはずだ。

 朝鮮通信使は室町時代に始まるが、豊臣秀吉による朝鮮侵略でいったん中断した。「負の行為」で損なわれた関係を修復する目的で、徳川幕府の時代になって、1607年に再開され、1811年まで計12回続いた。

 使節は武官や文官、楽隊らで500人に達することもあった。一行は韓国・釜山から船に乗って大阪まで移動し、京都から主に陸路で江戸へ向かったという。船団を仕立てて行き来した瀬戸内海の寄港地にも、多くの足跡が残る。

 福山市鞆町の福禅寺対潮楼には、通信使の高官の揮毫(きごう)を基にした「日東第一形勝」の木額が掛かる。呉市下蒲刈町には、通信使の船団を見物していた民衆の驚きや感動の声が記された絵巻物が伝わる。赤間関(下関市)や上関(山口県上関町)ゆかりの絵巻や文書もある。

 鎖国中の日本にあって、外国の文化に触れられる機会はほとんどなく、通信使への関心は民衆を巻き込んで高かった。各地に残る通信使の記録は地域に根ざした歴史資料としても価値は小さくなかろう。今回の登録を機に再評価して、住民の関心の高まりにもつなげていきたい。

 国内だけではなく、韓国にも点在する通信使ゆかりの地が連携すれば、今後の日韓両国の友好親善に必ず寄与するはずである。住民レベルで交流を深める試みが重要になってくる。

 日本による植民地支配という過去を抱える日韓の間には、歴史問題を巡ってとげが刺さったままだ。今回の「世界の記憶」の登録を巡っても、韓国や中国の民間団体が旧日本軍の従軍慰安婦関連資料を申請していたが、ユネスコは関係国の対話が必要だとして判断を留保した。対立を避けて、融和に導きたい思いの反映だろう。

 ユネスコが掲げる「対話の精神、国際的な相互理解を尊重し、平和の促進につながることが重要だ」との考えにも、まさに朝鮮通信使の登録はかなっているのではないか。

 負の遺産を乗り越えて友好関係を築こうとした朝鮮通信使の歴史を記憶に刻まなければならない。歴史問題はすぐには解消できないだろうが、「誠信の交わり」の精神を次代へ引き継ぎ、揺るぎのない善隣関係を築くきっかけにしたい。

(2017年11月1日朝刊掲載)

年別アーカイブ