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連載・特集

日韓の友好 瀬戸内に足跡 朝鮮通信使「世界の記憶」

 国連教育科学文化機関(ユネスコ)は31日、日本と韓国の民間団体が共同申請していた「朝鮮通信使に関する記録」を「世界の記憶」(世界記憶遺産)に登録した。通信使が寄港した瀬戸内海沿岸に残る資料からは、互いを敬った江戸時代の平和外交の様子が伝わる。(衣川圭、今井裕希、堀晋也)

絵図「朝鮮通信使船上関来航図」(山口県上関町・超専寺所蔵)

 6隻の朝鮮通信使船を萩藩の軍船などが警護して上関に入港する様子を描いた。進行方向などから1763年の往路を描いたものと推測される。高官の宿舎「御茶屋」や、特設される桟橋「唐人橋」などが詳細に描写されている。

紙本墨書「対潮楼」(福山市・福禅寺所蔵)

 福山藩が通信使の歓待のために建てた福禅寺の客殿を「対潮楼」と名付けたのは、1748年の正使洪啓禧(ホンゲヒ)だ。その息子の洪景海(キョンヘ)が力強い大書を残した。この書を基に作成した木額は対潮楼に残る。

紙本墨書「日東第一形勝」(福山市・福禅寺所蔵)

 1711年、通信使の上官8人が、福山市鞆町の福禅寺楼上からの眺めを「対馬から江戸までで一番美しい」とし、従事官の李邦彦(イ・バンオン)が隷書でしたためた。書の傷みを心配した福山藩は約100年後に木額にした。その額は普段、福禅寺対潮楼に掛かる。

正徳元年朝鮮通信使進物目録(山口市・県立山口博物館所蔵)

 1711年、通信使は赤間関(現在の下関市)で長州藩主毛利吉元たちに歓待され、そのお礼にすずり石や色紙、扇子などの進物を贈った。その大部分が現存しているのは珍しく、政治史や文化史上重要とされる。目録には進物の内容が記されている。目録は、写真右端の木箱の左にある折り畳まれた書状。並んでいる進物は全体の一部。

絵巻物「朝鮮人来朝覚備前御馳走船行烈図(ごちそうせんぎょうれつず)」(呉市・松濤園(しょうとうえん)所蔵)

 1748年に日本に来た第10次朝鮮通信使の船団が、日比港(玉野市)から牛窓(瀬戸内市)に向けて進む様子を描く。警備を担当する備前藩の船を含めて約370隻が描かれている。副使の船が燃える事故があり日本船で代替したことや、行列を見物する日本人の驚いた声が注釈として記されている。

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朝鮮通信使ユネスコ記憶遺産日本学術委員会 仲尾宏委員長

商人や農業者ら民衆も巻き込む

 朝鮮通信使が通った時、瀬戸内海沿岸などの各藩は、次回の応接のために接待に当たった人数や料理の出し方を記録した。そうした文書は、朝鮮王朝側の記録とともに「世界の記憶」の資料となった。宿泊場所の確保や食料調達などは商人や農業者も関わった。藩政史料とともに町家の文書にも通信使のことが記されている。国同士の誠信外交は、民衆を巻き込んだ文化交流にもなった。

 呉市にある絵巻物「朝鮮人来朝覚備前御馳走船行烈図(ごちそうせんぎょうれつず)」は、船団を見物していた町人が描いた。群衆の感動や驚きも書き加えられていて面白い。通信使の紀行文「海游録(かいゆうろく)」には、上関で少女が、通信使に自分の書いた文字を披露したという記述もある。

 通信使の高官が残した書画は大切に扱われた。福山市鞆町の福禅寺対潮楼で書かれた隷書「日東第一形勝」などは、福山藩が扁額(へんがく)にして後世に伝えている。

 瀬戸内海の寄港地は交流の歴史に光を当ててきた。対馬藩主が「安芸蒲刈御馳走一番」ともてなしを絶賛した呉市下蒲刈町では、当時の料理を再現していて分かりやすい。鞆町の鞆小学校の第一校歌の歌詞は「日東第一形勝」から始まる。大切に歌い継いでほしい。

 日本と朝鮮半島の友好的な関係が約200年続き、東アジアの平和と安定が保たれたことは世界的に見ても意義深い。隣り合う国こそ、いろんな課題が出るのは当然。通信使の外交体制があるから武力に訴えることにならなかった。両国の「誠信の交わり」の教えを、ヘイトスピーチもみられる今こそ生かしたい。

駐広島韓国総領事館 徐張恩(ソ・ジャンウン)総領事

親善の歴史 認知広がって

 瀬戸内海は朝鮮通信使のルートとなり、隣国同士の交流の舞台となった。親善の歴史を将来にわたり記憶していくことは大切。関連資料の「世界の記憶」登録の価値は高い。

 韓国と日本の民間団体が共同で申請し、両国政府が応援できる形になったことが意義深い。2千年以上にわたる両国の関係でも争いの時代はあった。平和的な外交の精神を今の時代に復活させて何ができるかを考えれば、よりいい関係を築くきっかけになる。

 中国地方全体をみると、通信使に関する認知度は低い。総領事館は、広島市のひろしまフラワーフェスティバルで、地元の市民団体などと通信使行列を再現した。世界の記憶への登録で、通信使と日本の人たちの交流の意味が全国に広がっていくことを願っている。

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朝鮮通信使
 江戸時代の1607~1811年に計12回来日した朝鮮王朝の外交使節。韓国・ソウルを出発し、対馬や瀬戸内海を経て大阪まで航行。陸路で江戸へ向かった。江戸幕府は豊臣秀吉の朝鮮侵略で断絶した国交を回復。通信使は約200年に及ぶ友好関係を築く要となった。対馬で接待した最後の1回を除き、上関(上関町)や下蒲刈(呉市)鞆(福山市)など瀬戸内海沿岸の港に立ち寄った。医学や芸術などの分野で交流が生まれた。

(2017年11月1日朝刊掲載)

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