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社説・コラム

天風録 『雨森芳洲への謝意』

 「縁地(えんち)」とは、いい響きだと思う。かつて朝鮮通信使が巡った土地を、縁地連絡協議会というNPO法人が束ねている。わが中国路の縁地は、下関から牛窓まである。理事長の松原一征(かずまさ)さんに、福岡市で1度お目に掛かった▲海運会社の社長で、敗戦の年に長崎県対馬で生まれた。通信使の歴史に瞠目(どうもく)したのは27年前。来日した韓国の盧泰愚(ノ・テウ)大統領(当時)が「雨森芳洲(あめのもりほうしゅう)」の名前を出して、宮中晩さん会でスピーチしたことがきっかけだった▲芳洲は江戸期の儒学者。対馬藩で外交文書を扱う役目を負い、通信使に2度随行する。だが一行の待遇を格下げした幕府側の新井白石に見下されたためか、その名は長く埋もれていた▲歴史学者の上田正昭さんが芳洲を意識したのは1960年代半ば、生誕地の滋賀県で遺稿を調べていた折だ。秀吉の朝鮮侵略を大義なき行いとする一方で、かの国との「誠信の交わり」を説いたことを知った。以降、胸を張って韓国の研究者と議論できるようになったと振り返る▲通信使にまつわる記録が「世界の記憶」に登録された。大勢に流されない外交が難しいのは今も変わるまい。わが国に芳洲がいたこと、上田さんならずとも感謝する。

(2017年11月2日朝刊掲載)

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