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平和公園設計の故丹下健三氏 直筆の書簡23通公開へ

■記者 水川恭輔

 平和記念公園(広島市中区)の設計者で2005年に91歳で死去した世界的建築家の丹下健三氏が、設計者に選ばれた1949年から約2年間、浜井信三市長(故人)らにあてた23通の未公開書簡が「死後の公開」を条件に市公文書館に保管されていたことが分かった。国名勝となった公園の知られざる成立過程を伝えるとともに若き丹下氏が残した唯一の書簡群。市は公開の検討を始めた。

 東京大助教授だった丹下氏が「原爆市長」として知られた浜井氏や市職員にあてた手紙22通とはがき1枚で、ほとんどが直筆。当時、市長室に勤務していた藤本千万太さん(92)=安佐南区=が1989年に市に寄贈した。丹下氏が恒久平和と復興の象徴として手掛けた公園ができるまでの発想や、東京での動きなどを刻々、伝える。

 丹下氏が設計コンペで採用された翌年の1950年5月27日の手紙。平和大橋(中区)のデザインを手がけた彫刻家イサム・ノグチ氏(1904-88年)とのやりとりを報告する。「広場に傾斜をもたせて」というアイデアをノグチ氏が提案したとして、丹下氏が「やって見たいと思っている」と市に伝えている。原爆慰霊碑のある高さと、南側の広場の間に段差がある公園の構造を決める原点となった、とも考えられる。

 1950年9月とみられる市長あての手紙は、3カ月前の朝鮮戦争開戦による世界情勢への憂慮と平和都市建設への決意もつづる。建設省(当時)の人脈などを活用し、「平和運動の基地」として公園内の集会場への補助を国に掛け合っていたことなど知られざるエピソードもある。

 戦前、広島で学生生活を送った丹下氏は広島を「第二の故郷」と呼んだ。公園の設計では原爆ドームと原爆慰霊碑、原爆資料館を直線上に見渡せるような設計プランを提案し、生かされた。書簡群は丹下氏が並々ならぬ情熱を注いできたことを物語っている。

 今年は公園建設の原動力となった「広島平和記念都市建設法」の公布から60年の節目。市は記念行事などで丹下氏の残した書簡の公開を検討する。

例のない貴重資料

 東京大生産技術研究所の藤森照信教授(建築史)の話 戦後の丹下氏の手紙がまとまって残っていたこと自体、例がなく、第一級の資料だ。広島の計画にかける熱意が伝わる。

丹下健三氏(たんげ・けんぞう)
 1913年大阪府生まれ。旧制広島高校(現広島大)を経て東京帝国大(現東京大)卒。平和記念公園の設計などを機に、戦後日本を代表する建築家となった。東大教授を務める傍ら、東京五輪会場の国立代々木競技場(64年)の設計や大阪万博(70年)のマスタープランを手掛けた。東京都新庁舎(91年)も設計した。80年文化勲章。

平和記念公園
 広島市が原爆で壊滅した中島地区に戦後間もなく建設を構想し、1949年に全国から設計を募集。145点の応募から丹下氏の作品を採用。同年8月に公布された広島平和記念都市建設法に基づき、国の特別補助を受けて整備が進み、55年までに原爆資料館、市公会堂などが完成した。

(2009年1月9日朝刊掲載)

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