×

ニュース

学童疎開船慰霊紡ぐ縁 広島 拠点の暁部隊 那覇 対馬丸記念館 銘板記載に感激

 太平洋戦争中、広島市に拠点を置いた暁部隊(陸軍船舶司令部)の船舶砲兵の遺族たちと、那覇市にある対馬丸記念館が、交流を始めた。遺族たちが毎年広島市内で開く慰霊祭で、戦時中に撃沈された学童疎開船「対馬丸」の犠牲者も追悼していると知った同館が「慰霊を通じた縁をつなぎたい」と持ち掛けた。(城戸良彰)

 同館によると、対馬丸は1944年8月、那覇から長崎へ向かう途中、鹿児島県沖で米潜水艦の攻撃で沈没。乗船者1788人のうち、学童784人を含む1482人が亡くなった。

 対馬丸には、護衛のため砲兵41人も乗っていた。唯一戦後まで生き残り、兵庫県内で暮らした吉田董夫(ただお)さん(故人)や戦死者遺族たちが77年、広島市南区の比治山陸軍墓地内に砲兵の慰霊碑を建立した際、銘板に「対馬丸乗船 沖縄疎開学童之霊」と記載。砲兵遺族たちでつくる「船舶砲兵部隊慰霊碑を守る会」が毎年10月に碑前で慰霊祭を開き、戦死者と共に弔ってきた。

 ただ、生前に吉田さんと交流のあった同館の関係者も知らされていなかった。慶田盛さつき学芸員(38)は「吉田さんは学童を守れなかったざんげの気持ちを持っていたという。ひっそり祈りたかったのでは」と推し量る。

 今年8月、沖縄戦の記憶保存に取り組む、広島経済大(安佐南区)の岡本貞雄教授(65)が銘板に気付き同館へ連絡。感激した同館は、10月の慰霊祭に花束を贈った。

 同館を運営する対馬丸記念会の外間邦子常務理事(79)は、対馬丸に乗っていた姉2人を亡くした。「感無量。護衛してくださった砲兵の皆さんにも手を合わせたい」と広島訪問を望む。同館は来館する修学旅行生たちに、慰霊碑のことを伝えていくという。

 守る会の川手房之会長(76)=広島市中区=は「会員の高齢化で活発な交流は難しいが、この絆を次世代に引き継げれば」。来年8月、広島での対馬丸犠牲者の慰霊祭開催を検討している。

(2017年11月11日朝刊掲載)

年別アーカイブ