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故丹下氏書簡 「平和発信」修正重ねる 公園構想 国とも交渉

■記者 水川恭輔

 被爆からの復興途上にあった広島市に郵送され、市公文書館で保管されていた故丹下健三氏の書簡-。ヒロシマの祈りの空間として国内外から人々が訪れる平和記念公園(中区)の構想が人のつながりを生かし、修正を繰り返しながら形成されたことを裏付ける。関係者は約六十年の時を超えてよみがえった若き建築家の熱意に驚きを隠せないでいる。

 手紙22通は、A4判の丹下氏オリジナルの便せん計85枚とB4判の用紙2枚。はがきも1枚あった。

 当時、丹下氏と連絡を取り合った元市職員が20年前に市に寄贈。「丹下健三氏の生存中は公開しないこと」と記した封筒に収められて、市公文書館の倉庫で眠っていた。

 高野和彦館長は、年明けに初めて手紙に目を通した。原爆資料館を支える柱をもとの計画から高くしたい-。細部にこだわる丹下氏は手紙の一つで、そんな注文を出していた。「読み込めば読み込むほど、建設途中の細かい動きが追っていけそうだ」と、今後の分析に期待する。

 東京大の藤森照信教授は生前の丹下氏と親交があった。丹下作品の全容をたどる丹下氏との共著「丹下健三」を2002年に出版している。日本を代表する建築史家。丹下氏の業績のすべてを知る立場から、書簡群に接した。

 平和記念公園の経緯を広島で調査した際には、その存在はまったく知らなかったという。「平和記念公園は、現在では20世紀を代表する都市計画と評価されているプランだが、手紙からは実現まで楽でなかったことがよく伝わる」

 被爆地の復興の過程を追ってきた石丸紀興・広島国際大教授(都市計画史)も書簡群に驚かされた。中でも、丹下氏が熱意を持って国と交渉したことにも注目する。「市財政が乏しい中、実現に向けて自ら熱心に国に説明していたとは」。単なる一設計者にとどまらない当時の丹下氏の行動の広がりに感心していた。

舞台イメージ 慰霊碑前に段差 ノグチ氏の助言活用

 米国の日系二世の彫刻家イサム・ノグチ氏が平和記念公園の構想にも助言していた-。書簡はそんな新事実を物語っている。

 「先日イサム野口氏に会いました。(中略)平和会館(現在の原爆資料館など)の模型の写真を見て、大いに歓談しました」

 1950年5月27日の手紙は、同月に来日したノグチ氏との歴史的な出会いを記す。ノグチ氏は、丹下氏に「一つだけ提案」をしたという。

 「広場に傾斜をもたせてこの部分に舞台のようなものを作ったらと言うことです」。公園の広場を低くし、現在、原爆慰霊碑がある中央部を高くする提案を丹下氏はスケッチを添えて市に説明。「調査をして見て実際に可能ならばやって見たいと思っている次第です」と添えた。

 49年の公園の設計コンペの際の丹下氏の模型の写真では、傾斜や段差はない。後に加わり、実際の公園に設けられた。ノグチ氏との出会いを契機に丹下氏が提案し、採用された可能性が高い。

 ノグチ氏はその翌年の51年、丹下氏の依頼で原爆慰霊碑を設計したが、原爆投下国の人間という理由で採用されなかった。しかし手紙が伝えるエピソードは丹下氏を通じたノグチ氏と被爆地との結びつきを再確認させる。

公園内施設建設費
陳列館以外へ補助増額訴え


 平和記念公園内の施設への建設費補助をめぐり、丹下氏は国に計画を熱心に説明し、増額を求めていたことが書簡で分かった。1950年4月7日の市への手紙では、建設省(当時)の都市局長との討議を報告する。

 陳列館(現原爆資料館本館)への補助しか認めない局長に対し、丹下氏は「陳列館は平和記念の消極的なものである。集会場(のちの市公会堂)、図書館を含む本館(のちの平和祈念館、現原爆資料館東館)の方がむしろ平和都市としては積極的な意味を持ったものと思う」と主張した。

 これに対し局長はこうした施設は他都市も必要で広島だけに補助はできないと反論。丹下氏は「平和都市の中心施設となるものであり、平和運動の基地」と再度、訴えた。

 結局、「本館」だけが3分の2の国費補助を受けた。「集会場」は、別の建築家の設計で55年に公会堂として完成した。公園機能は未来に向けた平和活動や市民交流の場であるべきだと丹下氏が考えていたことが分かる。

ロンドン建築会議
復興計画を発表 市が制作費支援


 丹下氏が、平和記念公園を核とする広島復興計画を世界に初めて発表したのは1951年7月の英ロンドンの近代建築国際会議(CIAM)。その際、広島市が作品制作費の支援をしていたことを、書簡は示している。

 「制作費についても御多忙中、御配慮をわずらわし感謝いたしております」。会議に先立つ51年5月1日とみられる手紙はそう記す。丹下氏は本番で公園模型のパネル写真7枚などを紹介した。

 計画は高い評価を受け、丹下氏の世界的建築家としての出発点ともなった。丹下氏と市が手を携えて世界に復興を発信しようとした当時の状況を浮き彫りにしている。

(2009年1月9日朝刊掲載)

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