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被爆72年 父の遺骨戻る 高橋広島大名誉教授  名簿1字違い 手続き進まず

供養塔そば 旧中島本町に生家

 広島市中区の平和記念公園の原爆供養塔に安置されていた父の遺骨を、長男で広島大名誉教授の高橋久さん(88)=西区=が72年ぶりに手にした。生家は供養塔東そばの旧「中島本町35番地」にあり、両親と弟を原爆に奪われた。市が公開する「原爆供養塔納骨名簿」を基に引き渡しを願っていたが高齢となり、意思をくんだ長女が必要書類をそろえて申請し、改葬許可も認められた。(西本雅実)

 1945年8月6日、父の脩(おさむ)さん=当時(43)=は、爆心地一帯となる中島本町で写真館を営み、空襲警報のたびに出動した警察補助員でもあった。母よし子さん=同(40)=と建物疎開作業に学徒動員された弟の力さん=同(12)=も行方不明となる。

 呉市にあった海軍兵学校に進んでいた久さんは8月20日すぎ、廃虚の自宅跡で見覚えの金歯から「母だろう」と言い聞かせて遺骨を納めた。独りとなった後は広島文理科大を卒業し、米国留学を経て、母校の広島大で英語学を教えた。

 「おじいさんらのお墓だよ」。長女の大木久美子さん(58)=東京都=ら娘3人も幼いころから供養塔に参った。市が中心となり各所の遺骨をまとめて55年、木碑から建て替えた供養塔は約7万柱を納める。名前が確認できた2355柱の名簿公開は68年に始まった。

 久さんは、父と同じ読みの「高橋修」を名簿で見て問い合わせたが、1文字違いから引き取りはかなわなかった。それでも「供養塔で眠っている」と参拝を続けた。被爆前の広島も詳細に描き昨年に公開されたアニメ映画「この世界の片隅に」の制作で、中島を巡る証言を求められ協力もした。

 こうした父の思いを受け止め、介護のために同居する久美子さんは8月に市原爆被害対策部を訪問。祖父の「除籍」や父の「本籍」など求められた書類を提出して「最終確認」の通知書を得た。引き渡しは今月24日、3姉妹も付き添って供養塔納骨室で行われた。

 久さんが元気であれば、「こう言うだろう」と久美子さんは話す。

 「原爆で家族も何もかも失ってしまいました。父の遺骨をやっと先祖代々の墓に納められることは自分にできる最後の親孝行だと思います」。脩さんの妻や次男が眠る墓に来月15日、家族で改葬するという。

(2017年11月27日朝刊掲載)

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