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社説・コラム

緑地帯 マーシャル諸島に学ぶ 竹峰誠一郎 <2>

 「ニカイ」「アミモノ」、さらに「バカヤロウ」などの日本語が、マーシャル諸島では聞かれる。米、刺し身、しょうゆは、マーシャル諸島の食に欠かせない。「ヤマムラ」「カネコ」、さらに「モモタロウ」という姓を持つ人が暮らす。この地は1914年から44年まで、30年にわたり日本の統治下にあった。

 トニー・デブルムさんが生まれたのは、広島に原爆が投下される半年前の45年2月である。マーシャル諸島は太平洋戦争の戦場となり、この地での日米の戦闘が終結して1年を迎えた頃であった。

 だが、マーシャル諸島に「戦後」はなかった。46年から58年まで、67回に及ぶ米核実験が繰り返された。その威力は、「広島原爆の1・7倍の威力を持つ核爆弾を12年間毎日爆発させ続けたのに匹敵する」と、トニーさんはよく例えていた。第2次大戦とは異なる「戦争」がこの地では続いたのだ。

 米国は、広島と長崎での原爆投下から1年にもならない46年7月に、マーシャル諸島で核実験を開始した。広島・長崎原爆の投下を導いたマンハッタン工兵管区が、この地での核実験「クロスローズ作戦」の実施部隊に加わった。広島に原爆を投下した爆撃機エノラ・ゲイに搭乗し、指揮を執ったウィリアム・S・パーソンズが、部隊の副指揮官に就いた。

 広島・長崎の原爆投下とマーシャル諸島の核実験は、「戦中」と「戦後」で単純に切り分けられず、米国の核開発の連続性の中で互いに深く結び付いている。「日本は核時代のきょうだい」と、トニーさんは語っていた。(明星大准教授=東京都)

(2017年11月22日朝刊掲載)

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