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社説・コラム

緑地帯 マーシャル諸島に学ぶ 竹峰誠一郎 <3>

 「核兵器の拡散防止に関する堂々巡りの交渉は、核の問題性をよく知る者に耳を傾けずに進められてきました。マーシャル諸島は、核兵器の直接的な経験を持つ世界の人々や国々と共に立ち上がり、とりわけ日本からこの会議に来られた被爆者と連帯します」

 2015年、米ニューヨークの国連本部であった核拡散防止条約(NPT)再検討会議。各国の政府代表を前に、マーシャル諸島の外相だったトニー・デブルムさんは述べた。「核兵器の爆発を見たことがある人は、この部屋に何人いるのでしょうか」と問い掛け、「私は目撃者です」と自らの体験を語り始めた。

 1954年3月1日、米国が水爆「ブラボー」実験をビキニ環礁で実施した時、トニーさんは爆心地から東南に470キロ離れたリキエップ環礁にいた。「9歳でした。釣りの網、木々そして海も、すべてが真っ赤に光りました。雷のような爆音が鳴りやみませんでした。私は家に逃げ込みました」「後日、米駆逐艦がやってきましたが、調査をしただけで戻っていきました。残留放射能で汚染された島に住み続けたのです。しかし誰も説明してはくれませんでした」

 米政府は、住民の被曝(ひばく)は「偶発的」であったと説明する。しかし、住民が住む島々に風が吹くことの認識や、爆発規模が15メガトンを上回るとの予測があったことが、後に米公文書で裏付けられた。

 住民はなぜ被曝をしなくてはならなかったのか。「自分たちは意図的に被曝をさせられた」と、トニーさんは次第に確信していくのであった。(明星大准教授=東京都)

(2017年11月23日朝刊掲載)

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