×

連載・特集

銭村家の軌跡 野球と生きた日系米国人 <1> 広島の思い出

兄弟そろってカープ入団

初の外国人選手 市民沸く

 1953年6月19日、広島カープ(現広島東洋カープ)に入団するため、日系米国人の兄弟2人が広島入りした。「あの日の感動は忘れないよ。群衆に囲まれ、驚いたなあ」。米カリフォルニア州フレズノの自宅で、兄の銭村健三(90)は当時を懐かしむように目を細めた。

 球団にとっては初の外国人選手。後援会が募った400万円もの資金を元手に健三と弟の健四、同じく日系2世の光吉勉の計3選手を招聘(しょうへい)した。当時の中国新聞は、市民の熱狂ぶりを「沿道に拍手して迎える十万余のファン」と伝える。米国で教職に就くことが決まっていた健三は約2カ月後に日本を離れたが、健四は56年まで活躍してオールスター出場も果たした。

 兄弟はしかし、来日するわずか8年前まで両親と共にアリゾナ州の強制収容所に入れられていた。旧日本軍のハワイ・真珠湾攻撃から2カ月後の42年2月、日系人の強制収容につながる大統領令が出されたためだ。

 抑圧された生活は終戦まで続いた。それでも野球だけは諦めなかった。父健一郎が施設の管理者に掛け合い、一家は自力で球場を造った。仲間を集め、試合も繰り広げた。そして同胞に生きる希望をもたらした―。

 大統領令発令から今年で75年。広島から海を渡り、戦争に翻弄(ほんろう)されながらも野球とともに生きた銭村家の軌跡をたどる。=敬称略(田中美千子)

白球と同胞を愛した父 広島生まれ。ハワイから米本土に移住

 米カリフォルニア州ロサンゼルスから飛行機で約1時間。かつて広島カープに在籍した日系2世の銭村健三(90)が暮らすフレズノは、同州中部に位置する。干しぶどうやアーモンド、桃などの産地。郊外には広大な畑が広がる。豊かな大地を目指し、戦前の日本から大勢の移民が渡った地でもある。

 市中心部から車で約30分の住宅街に健三の自宅を訪ねると、やはり広島出身の両親を持つ日系2世の妻ベティ(85)と共に、笑顔で迎えてくれた。「何から話そうか。やはり、父の事からじゃないと始まらないな」

 1968年11月13日、交通事故のため68歳で亡くなった父健一郎。地元紙「フレズノ・ビー」は、翌朝の紙面で「2世野球の主、死去」と大々的に報じた。米国では「日系人野球の父」とも呼ばれる。

 「父は40代になっても僕たち兄弟を負かすほどの選手だった。その上、優れた監督でもあったんだ」。健三は胸を張る。「多くの2世選手の才能を見いだし、どんなチームでも一流に育て上げた。僕らを広島に送ったのも父なんだよ」

 その人生は1900年、広島市で始まった。どこで生まれたかははっきりしないが、今の広島市中区竹屋町とみられる。外務省が07年に旅券を発行した際の資料によると、行き先は「布哇(ハワイ)」、渡航理由は「父ノ呼」。先にハワイ・ホノルルへ渡っていた父政吉に呼び寄せられたことが分かる。政吉は白人家庭の使用人として働いていたという。

 7歳の健一郎がハワイに渡った頃、野球は日系移民の間で既に人気のスポーツだった。ただ両親がプレーさせたがらなかった。健一郎は大人になっても身長が1メートル52センチ。体重は50キロ以下だった。「父は一人息子。祖父母はけがを恐れたのかもしれないね」と健三。「父はバットやグラブを外に隠して、ひそかに野球をしに行っていたと話していた」と記憶をたどる。

 小柄ながらも、健一郎は高校の野球部で頭角を現した。内野手や捕手として活躍しただけでなく、強いリーダーシップを発揮。主将時代はチームを初めて、ハワイ全島のチャンピオンに導いている。より本格的な野球に挑戦したかったのか。20年に親元を離れ、米本土を目指した。選んだ先は、同郷の日系移民も多いフレズノだった。=敬称略(田中美千子)

長男は東洋工業でサッカー。次男、三男は広島カープに入団

 銭村健一郎は米カリフォルニア州フレズノで24歳の時、広島出身の両親を持つ日系2世のキヨコと結婚し、息子3人を授かった。自身の名前に「一」が入っていることから、上から順に健次、健三、健四と名付けた。5人家族のうち今も健在なのは、フレズノに住む次男の健三だけとなった。

 まさにスポーツ一家だ。健一郎は野球一筋。捕手や遊撃手、投手をこなし、若いうちからコーチや監督を兼任した。健三と健四も父の背を追って、少年時代から野球に没頭。2人ともフレズノ大で好成績を残し、後に広島カープへ入った。

 父子3人は戦中、キヨコと共にアリゾナ州のヒラリバー強制収容所に送られ、約3年を過ごした。この間、現地に球場を造り、野球を続けたことでも知られる。

 一方、健次はサッカーを選んだ。「長男には日本の教育を」と、祖父母が戦前のうちに広島へ連れ帰ったことが弟たちとの道を分けた。進学先の修道中に野球部がなかったため、当時の蹴球部に入部。戦後も日本に残り、Jリーグ・サンフレッチェ広島の前身に当たる東洋工業蹴球部で、フォワードとして活躍した。

 健次はそのまま日本で生涯を終え、その子や孫は東京や近郊に暮らす。米国の銭村家の人々とは今も交流を続けている。

父 銭村健一郎

 ぜにむら・けんいちろう(1900~68年)広島市生まれ。7歳で米ハワイ・ホノルルへ移り、20歳でカリフォルニア州フレズノへ移住。日系人野球チーム「フレズノ・アスレチック・クラブ」を中心に選手、コーチ、監督として活躍した。戦前に3度のアジア遠征を重ねるなど、野球を通じた国際交流に貢献。55歳までプレーを続けた。

長男 銭村健次

 ぜにむら・けんじ(1925~2002年)米ハワイ・ホノルル生まれ。7歳の頃に祖父母と共に広島市中区へ。千田小を卒業後、修道中でサッカーを始めた。慶応大を出て、入社した東洋工業(現マツダ)の蹴球部で活躍した。54年に実業団では初めて天皇杯決勝へ進み、準優勝。主将を務めた56年の全日本実業団選手権で初優勝を飾った。

次男 銭村健三

 ぜにむら・けんそう(1927年~)米カリフォルニア州フレズノ生まれ。フレズノ大在学中、4割2分4厘の高打率でチームをけん引。53年6~8月、広島カープに在籍した。外野手。広島を離れた後は中学校の教壇に立つ傍ら、2005年まで25年間にわたり、地元の少年野球を指導。アジア、南米などへの遠征も数多くこなした。

三男 銭村健四

 ぜにむら・けんし(1928~2000年)米ハワイ・ホノルル生まれ。フレズノ大在学中の52年、全米学生選抜として来日。53年に広島カープ入団。走攻守そろったプレーでファンを沸かせた。54年にオールスター出場。56年引退。4年間の通算成績は375試合に出場し、317安打で打率2割3分7厘、11本塁打、91打点、70盗塁。

(2017年11月16日朝刊掲載)

年別アーカイブ