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連載・特集

銭村家の軌跡 野球と生きた日系米国人 <2> 若き父の活躍

ルースと対戦 時の人に

 1920年に米ハワイから単身、カリフォルニア州フレズノに移った銭村健一郎は、自分と同じ広島出身の移民が営む車の修理工場で働き始めた。「父はそこで恋に落ちたんだ」と、次男の健三(90)=フレズノ。健一郎は24年、経営者の長女キヨコと結婚した。

 家庭を持っても、野球への情熱は燃やし続けた。キヨコが生前、野球史に詳しい慶応大の池井優名誉教授(82)=横浜市=の聞き取りにこう語っている。「おじいさん(健一郎)は仕事から帰るとグラウンドに駆け付けとった。ユニホームを洗おうとすると『今勝っとるけん、ジンクスを落とすな』と言われたもんです」

 当時は、西海岸を中心に100を超える日系人チームが独自の「2世リーグ」をつくっていた。健一郎はフレズノを拠点にした有力チームの選手として活躍。「黒人リーグ」や大学の強豪とも対等に戦った。

 24、27、37年にはチームを率いてアジア遠征を果たす。24年に対戦した慶応大野球部の監督は翌25年、月刊誌「野球界」の新年号で、健一郎を「二塁に入つて一塁へ投ずる球の投げ方など実に敏活で一寸(ちょっと)真似(まね)も出来(でき)ない」と絶賛した。

 27年には慶応、明治、法政大などを打ち負かし、同誌6月号が特集を組んだほど。「大学チームを総なめに」「悠々連戦連勝」との見出しが躍る。巻頭の写真グラフまで飾った。

 同年、健一郎は地元でも時の人に。「スター選手と対戦したんだ」。健三は胸を張る。相手は大リーグの巡業でフレズノを訪れたベーブ・ルースやルー・ゲーリック。この時のルースとのやりとりが、今も語りぐさになっている。

 試合で安打を放った健一郎はルースが守る一塁へ。大胆にリードを取り、けん制球も難なくかわした。2度目のけん制。今度はルースがブロックしてきた。その股の間をすり抜け、またもやセーフに。怒ったルースは「次に同じ事をしたら、おまえさんをつまみ上げてバット替わりに使ってやるぞ」と叫んだ―。

 ルースは同年、60本塁打を放つ記録を打ち立てたばかり。当時の地元紙によると、この日の観客は5千人もいた。152センチの小兵が188センチの巨漢と渡り合う姿に球場は沸き返った。

 健一郎はこの時にルースと撮った記念写真を、日本に送っていた。新聞社に宛てたとみられ、裏面に「ルースが日本遠征に興味を示している」と協力を求める直筆メッセージも。野球を通して日米交流に尽くす姿も浮かぶ。

 自由に野球ができる日々はしかし、長くは続かなかった。一家に戦争の影が忍び寄っていた。(敬称略)

(2017年12月5日朝刊掲載)

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