×

連載・特集

銭村家の軌跡 野球と生きた日系米国人 <3> 希望を捨てずに

強制収容下 協力し球場

 1941年12月。旧日本軍による米ハワイ真珠湾攻撃は、米国の日系社会を打ちのめした。排日運動はエスカレートし、日系人の家への投石事件も。銭村健一郎の次男健三(90)=カリフォルニア州フレズノ=は「学校に行くのも怖かった」と振り返る。

 日本語教師や仏教関係者たちリーダー格とみなされた日系人が連邦捜査局(FBI)に相次ぎ連行され、健三は真っ先に父の身を案じた。「野球で日本に遠征した経験から、スパイと疑われないか、とね」。家にあった日本の写真やおもちゃは急いで焼き払った。

 42年2月19日、ルーズベルト大統領がついに「大統領令9066号」を発令した。西海岸を中心に11万人以上の日系人が強制収容所に送られることになった。

 銭村一家も同5月16日、フレズノの家を追われた。「忘れもしない。僕の15歳の誕生日だった」と健三。持ち出しを許されたのは両手に持てる物だけ。家財は二束三文で買いたたかれた。健一郎は車の販売業を興していたが、その権利も手放さざるを得なかった。

 地元の競馬場に急ごしらえされた仮収容所で数カ月を過ごした後、アリゾナ州のヒラリバー強制収容所に移送された。砂漠の真ん中に並んだバラック建ての長屋に、ピーク時には約1万3千人が押し込められた。

 「プライバシーなどなかったよ」と健三。簡素な間仕切りしかなく、話し声やいびきが筒抜け。トイレもシャワーも共用だった。食事には不自由しなかったが、食堂の衛生状態はいまひとつ。食中毒も起きた。

 しかし、うちひしがれていたわけではない。動きだしたのは健一郎だった。

 砂漠の夜は冷える。ある晩、健三は健一郎、弟の健四と共に廃材を燃やし、暖を取っていた。「荒野を眺めていた父が『球場を造るぞ』と言ったんだ」。父子は荒野に根を張るヤマヨモギを抜き、岩や小石を取り除くことから始めた。いつしか男たちが続々と集まり、作業を手伝うように。健一郎が話を付けたのか、看守も黙認したという。

 「夜間に廃材を拝借してね。バックネットや観客席も造った」と健三。グラウンドに水がまけるよう、洗濯場から溝を掘る作業も進めた。炎天下の重労働。ガラガラヘビに驚かされたことも。それでも「打ち込めるものがあって良かった」と健三は言う。「野球がなければ怒りが爆発し、僕は非行に走っていたと思う」

 人々が希望を託した球場は43年3月、ついに完成した。(敬称略)

(2017年11月18日朝刊掲載)

年別アーカイブ