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連載・特集

銭村家の軌跡 野球と生きた日系米国人 <4> 海を隔てて

離別 日米で互い案じる

 1943年3月7日、米アリゾナ州のヒラリバー強制収容所は、銭村健一郎が心血を注いだ球場「ゼニムラフィールド」の完成に沸いた。始球式は白人所長が務めた。所内には年齢や居住エリア別に30以上のチームが次々に誕生した。

 所内の高校に通っていた次男健三(90)=カリフォルニア州フレズノ=は、校内でもチームを結成した。「父が収容所に掛け合い、他校の白人チームを呼んでくれた」。州大会の覇者に勝ったこともある。野球を糧に、一家は苦境を切り抜けつつあった。

 ただ健一郎、キヨコ夫妻には気掛かりがあった。海を隔てた日本に暮らす、もう1人の息子のことだ。

 健三、健四の兄で長男の健次。キヨコが25年、健一郎の両親の住むハワイ・ホノルルで産んだ。だが両親が初孫を溺愛し、手放そうとしない。しかも日本の教育を受けさせようと、小学校入学に合わせて広島市へ連れて行ってしまった。「母は時折、兄の名を口にして泣いていた」と健三。

 家族と離れた健次は、千田小(現中区)から修道中(同)へ。野球部がなかったため蹴球部に入り、進学先の慶応大予科でもサッカーに励んだ。しかし、中断を余儀なくされる。日米が開戦したためだ。

 健次もまた、家族の身を案じていた。東京の外務省外交史料館には健次が43年12月、収容所にいる家族を日本へ戻すよう、外相に願い出た文書が残る。自身の学徒出陣が迫っているとして「財産(動・不動産)父母ニ確カニ渡シテ出陣シタク此段願上ゲ候」とつづってある。

 願いが届かぬまま、健次は44年8月、海軍予備学生に。上官に殴られ、鼓膜が破れたこと。飛行艇が被弾し同乗者が戦死したこと。九州で終戦を迎えた後に広島へ戻り、焦土と化した古里に衝撃を受けたこと…。健三が兄からじかに聞いたのは戦後、再会してからだ。健次を育てた祖母は戦前に他界。祖父は米国に戻っていて助かったが、健次は「原爆で多くの同級生を亡くした」と語っていたという。

 戦後、復学した健次はサッカーを再開。その暮らしを支えようと、健一郎は米国から何度も物資を送ったようだ。収容所からフレズノへ戻り、農園で働きながら家族の生活を立て直す日々。それでも、進駐軍として日本に向かう野球チームの教え子たちに、ライターに使う火打ち石など、換金できそうな品を届けさせていたという。

 親心に支えられ、健次は卒業後、J1サンフレッチェ広島の前身、東洋工業蹴球部に入部。主将として出場した56年の実業団選手権で優勝するなど、好成績を残した。(敬称略)

(2017年11月19日朝刊掲載)

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