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連載・特集

銭村家の軌跡 野球と生きた日系米国人 <6> カープ時代

父譲り走攻守 4位貢献

 銭村健三(90)=米カリフォルニア州フレズノ=の自宅には、菊の花をデザインした金属製のつぼが飾ってある。1953年に広島カープ(現広島東洋カープ)を去る際、球団から贈られた品。背面には当時の監督や選手の名が刻んである。「小鶴(誠)、長谷川(良平)、金山(次郎)…。いいやつばかりだった。三村(勲)には新品のグラブを譲ったが、使ってくれたかな」

 米国の中学で教えることが決まっていた健三。広島時代は2カ月と短く、外野手として試合に出た回数は限られたが、思い出は多い。「雨で試合が中断すると観客が『やれー』と叫ぶんだ」「後援会の食事会にもよく呼んでもらった」。情熱的なファンの姿が印象に残っている。

 弟の健四は53年から56年まで外野手として活躍した。走攻守そろったプレーは父親譲り。抜け目のない走塁や好守で、沈んでいたチームの3年連続4位に貢献し、54年にはオールスターゲームにも出場した。

 同年2月、大リーグの強打者ジョー・ディマジオと新妻マリリン・モンローが当時の広島総合球場(広島市西区)を訪れた際は、通訳を務めた。「弟は後に『打撃指導を受けるよりもマリリンとベンチで話していたかった』と冗談を言っていたよ」と健三は笑う。

 父健一郎は55年、日系2世の教え子を新たにカープへ送った。「フィーバー平山」の愛称で知られる平山智(87)=フレズノ=だ。健三、健四とはフレズノ大のチームメート。銭村家とは今でも親しい間柄だ。

 巧打、強肩、俊足を誇り56、58年とオールスターに出場。コーチを含む11年間を広島で過ごした後、駐米嘱託スカウトも務めた。「広島でプレーできて幸せだった。全て銭村(健一郎)さんのおかげです」と感謝の言葉を口にする。

 ファイトあふれるプレーが愛されたが、飛球を追ってフェンスに激突した後遺症で、今は右目がほとんど見えないという。それでも「走り、滑り、つなぐ。そして、失敗しても言い訳をしない。それが銭村さんから教わった野球だからね」と語る。

 健三は別の形で父の思いを継いだ。2005年まで25年間、フレズノの少年野球団を指導したのだ。アジアや南米に遠征。訪日時は毎回、選手をホームステイさせ、事前に日本語のあいさつや生活習慣を教えた。

 「子どもが野球を通して交流し、互いの文化を学ぶ。そんな姿を見られるのが幸せでね」と健三。広島では必ず原爆ドーム(中区)に連れて行った。「原爆が何をしたか、知らせたくて。野球ができる平和が続いてほしいね」と力を込めた。(敬称略)

(2017年11月21日朝刊掲載)

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