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被爆死の兄 生きた証し 遺品のかばんと防空頭巾 オスロへ

広島の舛田さん「核廃絶の力に」

 肩ひもがちぎれ、熱線で焼けた跡が残る布製のかばん。広島市立造船工業学校(現市立広島商業高)1年だった13歳の時、被爆死した舛田幸利さんの遺品が、非政府組織(NGO)核兵器廃絶国際キャンペーン(ICAN(アイキャン))のノーベル平和賞受賞企画で、ノルウェー・オスロのノーベル平和センターに展示される。「核兵器廃絶運動の一助になる、こんなチャンスはない」。弟で、被爆者の益実さん(83)=西区=は兄の生きた証しに、平和への願いを託す。(野田華奈子)

 「おやじの言うことをよく聞く素直ないい子だった」という幸利さんは7人きょうだいの長男。1945年8月6日の朝、建物疎開作業のため動員され、爆心地から約500メートルの旧材木町(現中区)にいた。

 「ゆきちゃんが帰ってこん」。古田国民学校(現西区)の校庭で閃光(せんこう)を見た益実さんは、自宅に戻った後に親類に聞かされ、同級生宅を訪ね歩いたが消息は分からない。近所の人が、幸利さんのかばんと、中に入っていた防空頭巾を見つけ届けてくれた。本人は帰ってこなかった。

 かばんは入学時に、母アサノさん(故人)が着物の帯芯を縫って作った。戦後、長くたんすにしまわれていたが、父の耀夫(てるお)さん(同)が73年2月、防空頭巾とともに原爆資料館(中区)へ寄贈した。

 原爆投下当時、山口市の陸軍師団に召集されていた耀夫さん。「幸利はなんで死んだんなら。何もしてやれんかった」。益実さんが高校生のころ、耀夫さんがぽつりと漏らしたひと言に親としての深い悲しみがあった。「わが子がどういう死に方をしたのかさえ分からなかった。遺品を何かに役立ててほしいと寄贈したはずなので、生きていたら展示を喜ぶだろう」

 ノーベル平和センターでは授賞式の翌11日から来年11月20日まで展示。数ある遺品の中から、核兵器が人間をいかに無残に傷つけ命を奪うかを伝える物として選ばれた。「遺品からどんな状態にあったかを想像してもらい、二度と兄のような被害者を出してほしくない」。その願いがいま、国境を越える。

(2017年12月7日朝刊掲載)

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