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社説・コラム

戦争と農業 京都大准教授・藤原辰史さん(島根県奥出雲町出身)に聞く

技術発展 負の側面に目を

トラクター→戦車 化学肥料→火薬・毒ガス

第1次大戦の実像 知るべき

 農業史の視点から戦争と科学技術の関係を問う気鋭の研究者がいる。島根県奥出雲町出身の京都大人文科学研究所准教授、藤原辰史さん(41)だ。新著「戦争と農業」(集英社インターナショナル)では農を巡る飛躍的な技術発展の負の側面に迫った。食の大量供給をもたらす一方で戦争の在り方を変え、核兵器を含む無差別、大量の殺りくにも結び付いたという。大胆な指摘の意味と現代への教訓を京都で聞いた。(岩崎誠)

  ―農業と戦争。どう結び付くのですか。
 20世紀の世界の人口増を支えた四つの技術があります。農業機械、化学肥料、農薬、品種改良です。農業を劇的に変えると同時に、それ以外の社会も変えました。第1次世界大戦以降の戦争もそうなのです。

  ―具体的に言えば。
 農業の機械化で中心的役割を果たしたトラクターから考えてみましょう。米国で登場したのは19世紀末。農業の効率を大幅に上げて欧州に広まりました。1914年に始まった第1次大戦が膠着(こうちゃく)状態に陥る中で、英国とフランスの軍人や軍需産業はのちに「キャタピラー」と商標が付けられる履帯の付いた米国製トラクターを見て、これを使えば前方を突破できるのでは、と思い付きました。そして開発されたのが戦車です。

  ―あまり知られていない事実ですね。
 化学肥料も似ています。コストダウンと人口増の背景から肥料を工業的に作る流れが出てきます。先頭にいたのがノーベル賞を受賞したドイツの化学者フリッツ・ハーバー。1909年に空気中の窒素からアンモニアを合成する「空中窒素固定法」を発明します。そのアンモニアは肥料のほか火薬の生産にも欠かせません。肥料産業が火薬産業にもなっていくのです。

無差別に殺傷

  ―戦場の実態はどう変わっていったのですか。
 火薬の原料が膨大に作られ、使われました。一つが機関銃です。機械的に撃ち続けるマシンガン。目の前にどんな人間がいるのかを確認することはほとんどありません。こうした殺傷方法を得たことが戦争の性質を変えたのではないでしょうか。意識することなく、簡単に人が殺せる。この感覚から戦争は歯止めのきかない残虐なものへ変化します。無人機による現代の戦争にもつながるのです。

  ―まさに核兵器がその象徴ではないでしょうか。
 当然、原爆もその流れにあります。どういう人が下にいて、どんな苦しみの中で死んでいくか、落とした人や命令した人は知ることはなかった。分からないからこそ広島にウラン型、長崎にプルトニウム型という2種類の原爆を落とし、効果を知ろうとしたのです。

  ―同じ大量破壊兵器の化学兵器も同じ構図ですね。
 化学肥料の大量生産の道を開いた技術が生かされました。各国に先駆けて毒ガスの研究を進め、開発に成功したのがドイツ。研究のリーダーが、あのハーバーでした。第1次大戦で大量に使われるのですが、戦争目的で開発された毒ガスは戦後、転用されていきます。米国は南部の綿花畑にまくことを始めました。平和利用の名の下に農薬へと名前を変えたのです。

「骨の粉砕器」

  ―第1次大戦の実像を知る必要がありますね。
 私たちの研究所では2007年から第1次大戦の共同研究を行いました。私もフランスやベルギーで亡くなった若い兵士の墓を見て回りました。火薬の爆発力と飛ぶ破片のスピードが桁違いに増したために首が飛んだり手足がもげたり、悲惨な死に方をしています。特にフランスのベルダンは独仏両軍の70万人が亡くなった激戦地。納骨堂で戦死者の骨を見るとバラバラになったものが大腿(だいたい)骨、頭蓋骨、背骨と部位ごとに積まれていました。この戦いをドイツでは「骨の粉砕器」とも呼ぶのです。

  ―残虐そのものです。
 日本では第2次世界大戦ばかり注目されますが、その残虐の土台をつくった第1次大戦の歴史を学ぶことは重要です。この大戦のもう一つの特徴は、世界史上初の大規模な総力戦だったことです。男性が戦地に赴いた工場で、女性たちが兵器を造る。そういうことが国全体で遂行され、前線の兵隊だけでなく銃後も標的になりました。その中で生まれた攻撃方法が空襲による無差別殺りくなのです。

ヒロシマ衝撃

  ―そうした研究の発想はどこから。
 島根の小学生時代、広島で原爆資料館や原爆ドームに衝撃を受け、何で戦争は起こるんだろうと思ったのがきっかけです。さらに大学に入ってナチスドイツを学び、悪の権化と思っていたナチスが第1次大戦で飢えた教訓から食糧の自給自足を目指していたことを知りました。実家は専業農家でコメを作っています。それもあってナチスと農業の研究に入りました。「自分たちもナチスになり得る」との視点で考えよう、と。大学院時代から戦争と農業技術をテーマにしました。

  ―とはいえ、農業の発展自体が悪いわけでは…。
 トラクターも化学肥料も農薬も、農作業に苦労する人々の切実な思いの中で生まれたものです。戦争に応用されるから使うなという議論に意味はありません。ただ死をつかさどる技術と生を営む技術が同根にある視点は持つべきです。

いつでも転用

  -重い指摘です。
 この世から兵器を廃棄しても、いつでも戦争に利用される民間技術がある。民生技術と軍事技術の二重使用「デュアルユース」の問題ですね。それが最初に問われたのが、核兵器と原子力発電なのです。核兵器が廃絶されたとしても、原発の技術がある限りは、核戦争の脅威は完全にはなくならないと私は考えます。

  ―これからの社会の在りようをどう考えれば。
 大量の資源を使って大量に生産し、大量の廃棄物を生む。迅速、速効、即決を重んじる。20世紀に肥大化した競争に勝つ仕組みが、戦争と農業を同時に覆っています。簡単には動かせませんが3・11以降、現代の食べ物は人の命をあまりにも気楽に考えるシステムだと見る人が増えたのはチャンスです。農業、戦争、教育、働き方。軍事も平時も自由に行き交う巨大な仕組みと異なる考え方を持っていれば、戦争をなくすことにもつながると思います。

ふじはら・たつし
 北海道生まれ。3歳の時に農業技師の父が島根県の農業試験場に移り、出雲市へ。父の古里横田町(現奥出雲町)で中高時代を過ごす。横田高、京都大総合人間学部卒。同大大学院中退。東京大講師を経て13年から現職。農業史。著書に「ナチスのキッチン」「稲の大東亜共栄圏」「トラクターの世界史」など。

第1次世界大戦
 1914年に開戦。ドイツ、オーストリアなどの同盟国とフランス、英国、日本など連合国に分かれて一進一退を繰り返した。15年にベルギーのイーペルでドイツ軍が使った塩素ガスによる死者は5千人とされ、化学兵器の初の本格使用となる。ほかにも航空機、戦車などの新兵器が次々と導入され、欧州では女性や青少年を含む国力総動員に至った。日本は中国・青島のドイツ軍を攻撃した。18年に終結し、死者は1千万人以上とされる。大戦中に発達したドイツの化学兵器技術は戦後、大久野島(竹原市)の毒ガス工場でも使われた。

(2017年12月18日朝刊掲載)

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