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社説・コラム

『別れの記』 戦後史研究者 丸浜江里子(まるはま・えりこ)さん

12月7日 66歳で死去 原水禁運動 原点追う

 語り口はソフトだが、発する言葉はシビアだった。取材しながら、次第に背筋が伸びたのを覚えている。

 福島第1原発事故から5年を迎えた昨年3月、東京都杉並区の自宅を訪ねた。悲劇を繰り返さないため、「私たち民衆が歴史に学び、手を結ぶしかない」。何度もそう訴えていた。

 米国のビキニ環礁での水爆実験を機に、地元杉並から全国へ広がった原水爆禁止署名運動の歴史を丹念に調べ続けた。その過程で、権力に対峙(たいじ)できる「民衆パワー」を痛感したようだ。

 2000年まで、都内の公立中で社会科教員を務めた。早期退職後、杉並区の教科書採択を巡って市民運動に関わるように。人と人をつなぐ運動の面白さも大変さも味わった。もっと深めたいと50代で大学院へ。

 同じ頃、杉並の署名運動を興し、原水爆禁止日本協議会の初代理事長となった安井郁氏(1907~80年)が残した資料と出合う。半世紀前の運動の息遣いに触れ、自転車のかごにボイスレコーダーを入れて可能な限り当事者宅を訪ね、聞き取りを続けたという。

 長く生徒に向き合った経験も生きたのかもしれない。市民一人一人と丁寧に相対した。著書では、「主婦の活動」「杉並発祥」と一面的に捉えられがちな署名運動が、消費組合や女性団体など戦前から連綿と続いた地元市民の活動の上に成り立っていたことを立体的に描いた。

 福島の事故で安全神話が崩壊した後も原発の再稼働や海外輸出を進める政府に憤っていた。だからこそ私たち民衆は「『生命と幸福を守りましょう』と立ち上がった杉並の原点を叫び続けよう」と呼び掛けた。

 病を押して、市民講座やメーリングリストで発信を続けていた。調べて伝えたいことがまだあったに違いない。その無念を思う。(論説委員・森田裕美)

(2017年12月26日朝刊掲載)

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