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60年安保 揺れた8・6 広島県・市式典 皇太子参列 公文書に舞台裏 

 退位日が2019年4月30日に決まった、天皇陛下が皇太子殿下だった1960年8月6日に参列され、広島市と広島県が唯一共催した平和記念式典の舞台裏を明かす公文書が見つかった。県立文書館が所蔵・公開している。日米安保条約の改定で揺れた60年、県は原爆死没者の「大慰霊祭」を構え、市は共催を提案して、平和宣言にも政治性を考慮する起草委員会の設置に合意していたことが分かった。(西本雅実)

 被爆15年の式典に向けては、原水爆禁止運動と60年安保問題を巡り、被爆地であらわになる運動団体と政権政党との深い溝が絡む。

 59年8月の第5回原水禁世界大会を控え、県は申請があった開催補助金を計上したが、大会が安保改定の阻止も掲げることを自民党県議団が取り上げて否決。「大慰霊祭の執行」を12月に発議し、決議した。

 そして60年2月17日、県、市、両議会の代表者が「四者会談」を開く。

 県側は、殿下や各政党党首らを招いて、大慰霊祭を8月6日に平和記念公園で「全国の遺族参集の許(もと)に県主催で行う意思がある」と市に迫った。

 市側は、米占領軍による50年の中止を挟み再開した式典は「過去九年間の伝統的行事」といい、同一日時・場所の開催に異議を唱えながらも「市の面子(めんつ)を立てる様に」と求めた。県議会議長の確約を受けて「市側から県市合同執行案が提出された」と、これまで伝えられていない内実を記している。

 結果として「原爆十五周年並びに平和記念式典」の名称で開かれることになり、式典の準備委員会は県遺族会なども入り、3月28日に発足。殿下らの「臨席を願う」ことで一致した。5月、大原博夫知事が宮内庁を訪れて要望する。

 平和宣言を巡っては、「政治的色彩が加味されたものであれば…種々の物議をかもす」と県が起草委の設置を起案。7月7日の会議で、知事と市長や両議会議長らによる起草が諮られ、出席した助役ら市側委員も「異議なし」と答えていた。宣言草案もあった。

 浜井信三市長による平和宣言は、草案の「戦争の完全放棄」にとどまらず「核兵器の禁止」も訴える。一方で、草案が「東西両陣営の関係は急速に緊張の度を深め」と米ソ対立を指摘した一節は、「国際情勢は…」とあいまいになる。

 また、復興現場で日雇いで働く被爆者らの労組が、式典を「祈りの日」に後退させずに「平和への決意」とするよう申し入れた文書(7月29日付)も残る。県市の回答(8月3日付)は「殿下ご出席のもとに…一部の勢力に偏するものでもありません」としていた。

 皇太子は式典で原爆慰霊碑への献花に続き、「今この慰霊碑に臨み、感慨切なるものがあります。…世界の平和を念願してやみません」と述べられた。旧原爆病院や翌7日には原爆資料館を訪ねた。

慰霊の旅の原点か

  著書に「平和記念式典の歩み」がある宇吹暁さん(元広島女学院大教授)の話
 当時、自民党広島県連は、原爆医療法(1957年制定)の改正を国に働き掛けた一方で、原水爆禁止運動団体に対抗する活動を展開し、式典内容も主導した。しかし、皇太子の参列を機に、式典は保守層も重みを意識する全国的な行事となった。60年の参列が、天皇として広島・長崎や沖縄などへの慰霊の旅につながったのか、宮内庁や各自治体の公文書公開と検証が求められる。期待もしたい。

(2018年1月4日朝刊掲載)

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