×

社説・コラム

『想』 能登原由美 音楽で「反核」を叫ぶ

 核兵器廃絶国際キャンペーン(ICAN(アイキャン))のノーベル平和賞受賞は、その団体と直接関わりのない私にもうれしいものだった。その活動に共感しているためでもあるが、私自身が「ヒロシマ」や「反核」をテーマに創作された音楽作品の研究に20年余り携わってきて、これまでに出会った被爆者や、核のない世の中を希求する音楽関係者の想(おも)いがようやく一つの極に届いたように思えたためでもあろう。

 一方で北朝鮮の核実験や、その使用を示唆する挑発的な言動が核戦争勃発の不安をもたらしている。ミサイル発射実験が繰り返されたころ、私の頭には核戦争の脅威と不安に駆り立てられて生み出された数々の音楽が浮かんだ。そこには作者たちの想い、不安に打ち勝とうとする想い、危機を何としても乗り越えようとする想いがにじみ出ていたのだが、今にしてその想いが理解できるような気がする。

 音楽作品を通して振り返ると、核戦争勃発が現実味を帯びたことは、2度あったのがわかる。1度目は東西冷戦が激化するとともに、ソ連の原爆保有や米英ソによる水爆実験の相次いだ1950年代、2度目は米ソによる核兵器配備競争が激化した70年代末から80年初頭。

 もちろん、核兵器に対し「ノー」を突きつける音楽は時期を問わず常に生まれているが、これらの時期に生まれた音楽やコンサートからは、人々の不安と切迫感がより強く伝わってくる。ただ、1度目は私の生まれる前のことであり、2度目はまだ小学校の低学年。どこか人ごとのように感じていたし、正直に言えば、「音楽で核戦争が防げるのだろうか」という疑問も心の中にくすぶっていた。

 けれども、今は思う。音楽は人々が不安を振り払い前に進み続けるためにやむにやまれず起こす行動であり、武器や権力を持たない者ができる最低限のあらがいではないかと。防げるかどうかではなく、何としても防ぐのだという強い気持ちがそこにある。音楽をする人々の気持ちにもっと寄り添うことの必要性を、今、感じている。(「ヒロシマと音楽」委員会委員長)

(2018年1月4日セレクト掲載)

年別アーカイブ