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社説・コラム

『潮流』 両論併記の危うさ

■論説副主幹 宮崎智三

 住民の間で賛否が割れている場合は必ず、双方の意見を並べて記す。両論併記が公平な記事を書くための原則だ、と教わってきた。ところが、それが結果的に読者を惑わすことになりかねない。そんなケースがあると今更ながら気付かされた。

 今月下旬の広島公開を待てずに岡山で見た映画「否定と肯定」がきっかけだ。ナチスドイツによるユダヤ人らの虐殺(ホロコースト)を研究する米国の大学教授が、ホロコースト否定論に立つ英国の歴史家から訴えられる。そんな実話を基に、ホロコーストはあったのか、なかったのか、法廷での論争を軸に飽きさせないように映画化している。

 この歴史家は文献を見つける点では評価されている。しかし、ホロコーストはなかったとの結論ありきで記した著書は、ある種のプロパガンダのようにしか思えない。やり方は実に巧妙だ。一次史料から自分に都合のいいところだけを引用したり、意図的に翻訳を間違えたり…。

 強制収容所にあったガス室についても、この歴史家は、死体置き場だったと主張する。法廷で疑問点を追及され、つじつまが合わなくなると今度は防空壕(ごう)だったと、あくまでもガス室であることは否定し続ける。

 少数意見が後に正しかったと証明される例は科学でも歴史評価でもある。多数意見ではないからといって尊重しなくてもいいわけではない。

 ただ、それが虚偽であれば話は違う。捏造(ねつぞう)や改ざんされた意見を同じ土俵に上げてしまえば、史実をゆがめることになってしまう。両論併記が正しくないケースもある。フェイクニュースの時代ならではの警告を与えてくれる映画といえそうだ。

 ホロコーストに限った話ではあるまい。日本の私たちも、襟を正さなければ、歴史をゆがめようとする者たちに付け入る隙を与えてしまいかねない。改めてそう思う。

(2018年1月6日朝刊掲載)

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