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社説・コラム

『論』 祖父のシベリア抑留 聞けなかった「声」を胸に

■論説委員 森田裕美

 祖父はシベリア抑留の体験者だった。私が幼い頃、吐く息まで凍るという極寒の地についてよく聞いた。でもそれ以外のことはあまり覚えていない。

 大人になり、広島に暮らす新聞記者として多くの人の被爆体験に耳を傾けてきた。原爆の威力や歴史にとどまらず、きのこ雲の下にあった一つ一つの命に向き合う―。それが取材活動の原点であり、責務だと感じてきた。悲劇を繰り返さないため、次代が体験者の声に耳を傾け、継承する意義も肝に銘じてきた。

 にもかかわらず、祖父の戦争・抑留体験にはなかなか向き合えなかった。何となく遠ざけてきた。シベリアで何があったのか。どんな思いで戦後を生きてきたのか。「聞かせて」が言えないまま、祖父は7年前に亡くなった。

 その祖父がのこした手記が、最近実家で見つかった。生前、じかに聞くことができなかった祖父の言葉にいま、出合い直している。

 「戦時体験の記録」と題したその手記は、新聞の活字より小さな文字で、ワープロ打ちしてある。おそらくまだ元気だった70代の頃に作成したのだろう。1944年4月の徴兵検査からシベリア抑留を経て47年10月に帰国するまでの行動とその当時の思いを、年表のようなスタイルでつづっている。

 祖父は旧満州(中国東北部)の工場で技術兵として機械修理の仕事をしていたようだ。徴兵への不安、軍隊教育の厳しさ、敗戦時の混乱などもつづるが、大半を割くのはやはり抑留の体験だ。

 旧日本軍の兵士らが旧ソ連軍の管理地域に連行され、劣悪な環境で過酷な労働を強いられたシベリア抑留という歴史的事実を、私はよく知っているつもりでいた。だがいざ手記に向き合うと、地理も用語も分からないことだらけ。関連書籍や史料にもできる限り目を通し、祖父の足取りと記憶をたどる作業を続けている。

 調べるほどに疑問が湧く。まず、祖父はなぜこんなに細かく記録できたのか。抑留者が記録の類を持ち出すのは厳しく禁じられ、難しかったはずだ。現に手記には、ナホトカで引き揚げ船に乗る前に「手帳類その他メモ等日本字で書いたものは全部没収されたため酷寒の地シベリヤで無念にも死亡した戦友の氏名、故郷の住所等が分からなくなり遺族に連絡ができなくなった」との記述もある。

 寒さと飢えで仲間が次々亡くなるなか、祖父はどんな思いで命をつないだのだろう。なぜ、このような手記をまとめようと思ったのだろう。直接聞いておけば良かったと悔やまれることばかりだ。

 祖父の思いに少しでも近づきたくて、抑留体験者である元教員の楠忠之さん(93)=広島市西区=を訪ねた。私の祖父とは経歴も抑留地も異なるが、一端でも当時の空気に触れたかったからだ。楠さんはモスクワ東南の収容所で2年を過ごし、仲間と脱走して留置所暮らしをした経験を、77歳になって手記にまとめている。

 楠さんは、帰国してすぐ現地の地図や体験をノートに書き留めていたという。ただそれがなくても「極限状態の体験は今でも驚くほどよく覚えているものだ」と、詳細に語ってくれた。

 <記憶とは、聞き手と語り手の相互作用によって作られるものだ>。歴史社会学者の小熊英二さんは、抑留された父親の半生を聞き取って2015年にまとめた著書「生きて帰ってきた男」で、そう繰り返し述べている。

 小熊さんの父親は、尋ねることで思い出して語ることも多かったという。<声を聞き、それに意味を与えようとする努力そのものを「歴史」とよぶのだ、といってもいい>とも記す。

 だとすれば、私はその貴重な「相互作用」の機会を逃してしまったことになる。それでも、のこされた「記録」を頼りに、聞けなかった声を探り当てて、意味を与える努力ならできると思いたい。

 70年余り前の出来事について体験者から直接話を聞けなくなる日は遠くない。そうなった時、私たちは何をすべきなのか。祖父の「記録」は、私にそれを考えさせる宿題なのかもしれない。

(2018年1月25日朝刊掲載)

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