焼け跡の西洋皿
18年2月19日
父母の悲しみ 強くにじむ
あの日、郊外にいて助かった父が自宅の焼け跡から後に掘り出した西洋皿。変わり果てた一家の生活と、遺骨も戻らなかったわが子への悲痛な思いがこもる=2015年、木下三郎さん寄贈。(撮影・高橋洋史)
次男失った記憶 刻んだ猛火の痕
≪無言の証人・西洋皿≫
直径は25センチ。西洋皿に墨で描かれた草木模様に見えるが、本当は真っ白だったのだという。1945年8月6日、原爆の猛火に襲われ、近くにあった何かが焼き付いたらしい。2000年に世を去った木下貫一さんが、自宅跡から掘り出した。45歳の時だった。
原爆資料館に、この皿を託した三男の三郎さん(83)=広島市西区=によれば、父は自分と祖父母を連れ、大塚(現安佐南区)に疎開していたという。あの日、巨大なきのこ雲を見て、ただ事ではないと貫一さんは市街地方面へ急いだ。妻の芳枝さんと、広島市立中(現基町高)2年だった次男の道夫さん=当時(13)=が、かつてせっけん工場を営んだ楠木町(現西区)の自宅に残っていたからだ。
爆心地から1800メートルの自宅や工場は無残に焼け落ちて、妻と子の姿はなかった。避難所を巡り、大やけどを負った芳枝さんと奇跡的に再会する。しかし建物疎開作業で小網町(現中区)に出ていた道夫さんは戻ってこない。「何日も何日も子を捜して歩き回った」「何時、突然帰ることがあるかと一つの望みもあった」。生前、国立広島原爆死没者追悼平和祈念館に寄せた体験記に、貫一さんは記憶をつづっていた。
どうしてもわが子を見つけ出せないまま、貫一さんが自宅土蔵の焼け跡から掘り出したのが、この西洋皿だった。もともと米国に渡ったことのある芳枝さんの父が持っていたものだ。
戦後、仏壇のそばに置いて大切にしていた。最愛の「道夫ちゃん」を失い、自らも深い傷を負った芳枝さんは、96年に亡くなるまでしばしば「言いとうない」「思い出しとうない」と涙を流したという。長男と四男は被爆前に亡くし、4人きょうだいで三郎さんが、1人だけ残された。
被爆70年の節目に資料館に寄贈したのは「こんなことがあってはならない、という証しです」。まぶたに残る兄は笑顔の少年のままだ。月初めに必ず原爆慰霊碑を訪れ、手を合わせている。(金崎由美)
(2018年2月19日朝刊掲載)