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永井博士に「原爆焼」 広島で礼状発見 長崎の3点確認 被爆地つなぐ役割注目

 広島の原爆爆心地近くの土を混ぜて制作された陶器「原爆焼」が、長崎で被爆しながら救護に当たった医師、永井隆博士(1908~51年)に贈られていたことが8日、分かった。広島市内で永井博士の礼状が見つかり、長崎市永井隆記念館が今月までに長崎市内の関係先で3点の現存を確認した。(城戸良彰)

 原爆焼を贈ったとみられるのは、中国新聞社の速記部長を務めた故山本康夫さん。歌人として、器の側面に刻まれた平和を願う短歌を詠んだ。康夫さんの次女光珠(こうじゅ)さん(53)が昨秋、広島市南区の自宅で礼状を見つけた。

 礼状は50年2月9日付。縦20センチ、横21センチの和紙に墨で書かれ、封筒に納められていた。原爆焼3点を「よい紀念(記念)として長く用いましょう」と述べ、「平和の御歌ももう古典のうちに生命を得たと感じます」とつづる。光珠さんは「原爆で全てを失った父へ、平和の思いは将来まで残ると励ましてくれたのでは」と推し量る。

 康夫さんは同年6月に長崎を訪問。永井博士と対面し、「広島と長崎で世界平和を共に祈ろう」と言われたと短歌で回想している。光珠さんの記憶では、「如己(にょこ)」と刻まれた湯飲みを贈られ、大切にしていたという。

 礼状を見つけた光珠さんから連絡を受けた広島県教委文化財課の白井比佐雄さん(55)が、同館に問い合わせ。永井徳三郎館長(51)が、博士が晩年を過ごした如己堂を探して2点を発見した。今月、館長の自宅で別の1点も見つけた。博士の孫に当たる永井館長は「2人のやりとりは祖父の亡くなる前年。最晩年まで広島の動きに関心を持っていたのが分かる」と話す。

 原爆焼は福山市神辺町の団体が50年ごろに制作。長く現存を確認できなかったが、2年前に同市で発見された。白井さんによると、長崎の3点を含め、これまでに16点が見つかっている。今回の発見について「原爆焼が両被爆地をつなぐ役割も担った」と注目。現品を確認し、来歴などの調査を進めたいとしている。

永井隆博士
 1908年、松江市生まれ。島根県三刀屋町(現雲南市)で幼少期を過ごした。長崎医科大(現長崎大医学部)卒。熱心なキリスト教徒で、被爆者の治療や平和を訴える執筆を続け、随筆「長崎の鐘」や「この子を残して」で知られる。51年、43歳で死去。69年に長崎市、70年には旧三刀屋町に記念館が設立された。

(2018年3月9日朝刊掲載)

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