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証言 記憶を受け継ぐ

『記憶を受け継ぐ』 増井健三さん―台湾生まれ 重ねた苦難

増井健三さん(91)=広島市中区

家ぺちゃんこ。無声映画のような死の世界

 増井健三さん(91)は「陳墀堯(ちんぢぎょう)」として日本統治下の台湾で生まれました。

 古里は西海岸の鹿港鎮(ろっこうちん)で、6人きょうだいの三男。家は貧しく、16歳で当時の台湾総督府(そうとくふ)が設立した海員養成所に進みます。日本名の「田川健三」を名乗り、卒業後の1944年、日本の海運会社が所有する給油タンカー「快速丸」の船員になりました。

 45年7月、呉港に係留中に米軍による爆撃に巻き込まれ、船は真っ二つに裂(さ)けて沈没。生き延びたものの、行き場を失って軍港の宇品近くの寮(りょう)で暮らしながら、船員として働きました。

 8月6日朝は、人に頼まれて台湾出身の同僚(どうりょう)と、大八車を引いて千田町(現中区)方面の製氷会社へ向かいました。その途中でピカッと鋭い閃光(せんこう)を浴びました。

 どーんと腹に響(ひび)く音が鳴り響くと、市の中心部で煙が上がるのが見えました。当時は18歳でした。「八丁堀の火事を見に行こう」という好奇心から、2人で何も知らずに爆心地へ向かったそうです。

 爆心地から2・2キロに当たる御幸橋(みゆきばし)を渡(わた)ると、見渡す限り家はぺちゃんこ。頭上には厚い雲が広がり、薄暗(うすぐら)くなりました。時刻は8時半前後だったようです。「まるで無声映画のような、死の世界に迷(まよ)い込んだ気がした」

 あちこちでパチパチと木が燃える音や、倒壊(とうかい)した家の中から「水をくれー」という低い声が聞こえてきました。さらに進んで広島電鉄の本社の近くまで行きましたが、気味が悪くなって引き返しました。

 その友人と宇品港に戻って郵便局の前で木にもたれかかり、ぼうぜんとなったのを記憶しています。目の前の通りを髪(かみ)が逆立ち、皮膚(ひふ)が焼けただれた人や、遺体が積まれた大八車が次々と港へ運ばれていきました。今思えば、臨時の救護所が置かれた似島へ向かったのかもしれません。

 放射線の影響(えいきょう)だったのか、夕方寮に戻って風呂(ふろ)に入ると髪の毛がごそっと抜(ぬ)け、翌日から下痢(げり)が1週間、続きました。

 終戦後は古里に帰る旅費がありません。共産党が支配した中国本土と、国民党政権が逃げ延びた台湾を巡る情勢も混乱を極めていたため、日本にとどまり、中国地方や九州を転々としながら、さまざまな仕事をしました。外国出身者や被爆者への偏見(へんけん)が強い時代です。言葉のなまりは「九州の方の出身」と説明しました。

 60年に人生の転機が訪れます。広島市内のビアホールで一緒(いっしょ)に働いていた増井清子さん(78)と結婚したのです。翌年、一人娘の日下(くさか)美香さん(56)が生まれます。暮らしを安定させるため、繁華街で中国料理店を開き、被爆者健康手帳もこのころ取得しました。

 ほかの店よりも一手間加えたチャーハンやギョーザが評判を呼び、店は大繁盛(だいはんじょう)。69年に平和記念公園の川向かいへ移転して「平和楼(ろう)」という店を開きました。約20年続けた店を引退後は、日本の国籍(こくせき)を取得。非政府組織(NGO)が運営するピースボートの世界一周の旅に参加し、ベトナムやカンボジア、フィリピンなど約40カ国で戦争の傷痕(きずあと)に触(ふ)れました。

 台湾名の一字を取った初孫、日下堯(たかし)さん(25)が9月からピースボートで海外を巡り、祖父の被爆体験を語り継ぐことにしています。「相手を知ることが平和への第一歩。私に代わって、行く先々の人びとと交流してほしい」と増井さんは期待を寄せています。(桑島美帆)

私たち10代の感想

自分なら泣いて過ごす

 今回初めて、台湾出身の被爆者の話を聞きました。歴史に翻弄(ほんろう)されてきた増井さんは、苦労を重ねてきたのに、今はとても楽しそうに見えました。私だったら「なぜ、こんな辛(つら)い目に合うのか」「母国に帰りたい」と泣いて過ごすと思います。外国の被爆者のことは知っていましたが、なぜ日本に来たのかなど、外国と日本の歴史を重ね合わせていきたいと思いました。(中2桂一葉)

日本式教育徹底に驚き

 「思いやりを持って交流することが大切」と話す増井さん。台湾と日本のそれぞれの立場を経験したからこそ、出た言葉だと思います。台湾と日本の戦前から現代までの関係も説明してくれ、特に日本の植民地だった時代に日本式の教育が徹底(てってい)されていたことに驚(おどろ)きました。国際的な相互(そうご)理解を深めるには、相手を知り、視野を広げることが重要だと感じました。(高2池田杏奈)

(2018年4月2日朝刊掲載)

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