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社説・コラム

『論』 台湾1947 「公の記憶」への長い道のり

■論説主幹 佐田尾信作

 この春、台北を旅した。中国本土と香港は取材などで何度か訪れたが、台湾は初めて。道中、司馬遼太郎著「街道をゆく」(朝日文庫)の台湾紀行を読み返した。世に出て四半世紀にもなるのに古さを感じさせない。台湾を代表する政治家李登輝と司馬との対談から、気になる一節を引く。

 司馬 台湾は台湾人の国ですね。

 李 (台湾は)台湾人のものでなければいけない。これは基本的な考え方です。

    ◇

 李 (中台統一を主張する中国に対し)昔流に台湾の人民を統治するという考えでは、別の二・二八事件が起こりますよと。

 司馬 中国のえらい人は、台湾とは何ぞやということを根源的に世界史的に考えたこともないでしょう。

    ◇

 李 かつてわれわれ七十代の人間は夜にろくろく寝たことがなかった。子孫をそういう目には遭わせたくない。

 30年前、蔣介石、蔣経国父子による総統(大統領)世襲が終わり、同じ国民党でも台湾に生まれた農業経済学者の李が総統の座に就く。前年には38年ぶりに戒厳令が解かれた。それを契機に、真相究明へ大きく動いたのが、ここに出てくる2・28事件である。日本では映画「悲情城市」が描いた悲劇といえば、通りがいい。

 1947年2月28日―。50年に及ぶ日本の植民地統治は終わったが、新たに台湾を接収した大陸の国民党軍は専横を極め、それに抗議した市民を武力で弾圧する事件が全土で起きた。犠牲者は数万人に達し、植民地時代から自治権拡大に動いた知識人も多数殺害された。李が「ろくろく寝たことがなかった」と言い表すのは、ひそかに連行される恐怖である。

 だが、その記憶を遺族が公に口にするまでに、40年の歳月が必要だった。日本国内で広島・長崎への原爆投下を巡る報道が検閲を受けたのが、占領期に限られたことを思えば、あまりに長い。

 台湾に詳しい県立広島大准教授の上水流(かみづる)久彦は「長い『沈黙の強制』は関係者の悲しみや恨みを一層深め、禍根を残した」とみる。台湾では同じ漢族も移住の時代によって本省人と外省人に分かれているが、事件は両者を対立させ、溝はいまだ埋め難いという。

 97年に開館した「台北二二八紀念館」を今回訪ねた。建物は植民地時代の放送局で、決起を伝えたマイクと「台湾人の自治の目覚め」と題した展示がプロローグ。事件の遠因、発生、結末が文献や写真で跡付けられ、「光と詩の劇場」と題した小空間に導く。言葉で表すことのできなかった真実を表現しているかのようだ。

 大平正芳記念賞も受けた2・28事件の研究者何義麟は「台湾現代史」(平凡社)に「(事件の)記憶の伝承は民主化の原動力となり、また民主化によって、封印された個人的体験も公的記憶になった」と記している。紀念館の展示は和解やゆるしもモチーフにしているように思えた。公の記憶になるとはそういうことなのだろう。

 一方で、女性作家龍應台によるノンフィクション「台湾海峡一九四九」(白水社)も盛んに読まれる。外省人の中には、国民党軍の一兵卒として台湾に来て二度と本土に帰れぬ人が多数いる。その孤独と苦悩を掘り起こした。

 台湾は本来、先住民も含めた多民族・多言語社会であり、想像以上に文化は多様化している感がある。国民党に対抗する民進党が2度政権を奪い、台湾人以外の何者でもない―と自覚する「天然独」の若者らがそれを支える。

 巨大な蔣介石座像が安置される中正紀念堂の鼻先に、二二八紀念館があるのも不思議だ。中正紀念堂は多くの観光客でにぎわうが、日本人の観光コースにない台湾を知ることも、ぜひ。(敬称略)

(2018年4月12日朝刊掲載)

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