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連載・特集

南方特別留学生 来日75年 交流の被爆者2人「語り継いでほしい」

異国で被爆 市民に気遣い

 太平洋戦争中の1943年、「南方特別留学生」として東南アジアから若者たちが初めて来日して75年になる。広島大によると45年当時、前身の広島文理科大に留学していた9人のうち8人が被爆し、2人が犠牲になった。外国人被爆者の実態を考える上でも、その事実は重い。当時、留学生と交流のあった広島の被爆者2人に記憶を語り合ってもらった。(山本祐司)

 広島市中区の吉川英子さん(91)と安佐北区の栗原明子さん(91)は、原爆投下前後の南方特別留学生たちの様子をよく知る。ともに広島女学院専門学校(現広島女学院大)の学生だった。

野宿をともに

 栗原さんは広島文理科大の校庭で一緒に1週間野宿し、助けられた。「背が高くすてきな人だった」と振り返るのは被爆して帰国の途に就く前に亡くなったサイド・オマールさんだ。

 マラヤ(現マレーシア)の王族出身。栗原さんによると留学生が暮らした興南寮(大手町、現中区)で上半身裸でアイロンを掛けていて被爆したという。爆心地から約900メートルだった。

 栗原さんは「野宿仲間」だったマラヤ出身の留学生から届いた手紙で、オマールさんの死を知る。「背中がやけどしていたとは全然知らず驚いた」と話す。

 記憶に残る、ほかの留学生たちも優しかった。母と一緒に父を捜す栗原さんを励まし、代わりに配給の乾パンを取りにも行ってくれた。「異国で大変な目に遭ったのに、『仕方ないですよ』と日本や米国を悪く言わなかった」

駆け付け看病

 吉川さんが明かす記憶もまた鮮明だ。同大の研究室で被爆し、吹き飛ばされて左腕を骨折。体中にガラス片が刺さった。自宅に運ばれて寝込んでいると、スマトラ(現インドネシア)出身のアディル・サガラさんが駆け付けてくれた。

 被爆前、同大に英文タイプの手伝いで通っていた吉川さんと知り合った。けがの看病に加え、寮から逃げる時に持ち出した得意のバイオリンを弾いて勇気づけてくれた。

 生き延びて戦後、母国で活躍したサガラさんのことは栗原さんもよく覚えている。同大の本館(広島大旧理学部1号館)の屋上にみんなで上がり、バイオリンで故国の曲「ブンガワン・ソロ」を演奏した思い出が忘れられないという。

 あの日から、ことしで73年になる。広島に来た南方特別留学生は既に全員が物故者。彼らと直接関わり、証言できる人も少なくなった。語り継いでほしいと、栗原さんは2013年に出版した手記「ヒロシマからの祈り」(いのちのことば社)で、留学生たちとの知られざる交流を明かした。

 中国新聞の求めで33年ぶりに集まった2人は「原爆で亡くなったオマールさん、ユソフさんも含め、被爆した市民を気遣ってくれた南方特別留学生のことを広く知ってもらいたい」と口をそろえた。

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原爆で2人犠牲 戦後は友好担う

 南方特別留学生は1943年に1期生が来日、44年の2期生と合わせ計205人が各地の大学などで学んだ。「大東亜共栄圏」を主張した日本政府に協力的な指導者を育てたいという思惑もあったとされる。

 現在のインドネシア▽ミャンマー▽フィリピン▽マレーシア▽タイ▽ブルネイ▽カンボジア―の有力者の子弟などから選ばれた。東京で日本語を学んだ後、各地へ。広島の地では、それぞれ広島大の前身である同一キャンパスの広島高等師範学校と広島文理科大が受け入れた。

 原爆投下時は広島文理科大の在籍者だけで、1期生5人と2期生4人。集団生活をした興南寮で被爆した1期生3人のうち、サイド・オマールさんとニック・ユソフさんが死亡した。

 被爆後、寮から行方が分からなくなったユソフさんは五日市方面へ逃げたが息絶え、広島市佐伯区の光禅寺に埋葬された。オマールさんは終戦後、広島を離れる途中、体調を崩した京都市で亡くなり、円光寺に墓が建てられた。

 戦後、広島から母国に戻った留学生は日本との橋渡し役を務め、時に被爆体験を語った。広島大は功績をたたえ2013年時点で生存していたマレーシアのアブドル・ラザク、インドネシアのハッサン・ラハヤ、ブルネイのペンギラン・ユソフの3氏に現地で名誉博士号を授与した。

 こうした歴史を踏まえ、国連訓練調査研究所(ユニタール)広島事務所が今年3月、東南アジア諸国連合(ASEAN)の政府職員を招いた研修では興南寮跡を巡った。南方特別留学生の調査を続ける広島大職員の平野裕次さん(46)は「原爆被害に遭い、日本を恨んでもおかしくないのに戦後も交流に尽力したのは意義深い」と語る。

<原爆投下時、広島にいた南方特別留学生>

名前  出身地  原爆投下時  戦後の主な職業 死去の時期と場所
ニック マラヤ  興南寮            1945年
・ユソ (現マ                 8月、広島
フさん  レーシ
    ア)

サイド マラヤ  興南寮            1945年9月、京都
・オマ (現マ
ールさ レーシ
ん   ア)

モハマ ジャワ  前日から外泊         帰国して数年後、
ド・タ (現イ                 インドネシア
ルミデ ンドネ
ィさん  シア)

ムスカ ジャワ  広島市郊外に入院中      1983年1月、
ルナ・ (現イ                 インドネシア
サスト ンドネ
ラネガ シア)
ラさん

アディ スマト  興南寮    商事会社勤務、 1996年11月、
ル・サ ラ(現         弁護士     インドネシア
ガラさ インド
ん   ネシア)

アリフ スマト  受講中    日本などで   2010年9月、
ィン・ ラ(現         大学教授    インドネシア
ベイさ インド
ん    ネシア)

アブド マラヤ  受講中    教員、日本語  2013年7月、
ル・ラ (現マ         講師      マレーシア
ザクさ レーシア)


ハッサ ジャワ  受講中    国会議員、   2014年11月、
ン・ラ (現イ         国会議長    インドネシア
ハヤさ ンドネ
ん    シア)

ペンギ 北ボル  受講中    首相、駐日大使 2016年4月、 ラン・ ネオ(                 ブルネイ ユソフ 現ブルネ さん  イ)

 広島大、江上芳郎・元広島大国際主幹、倉沢愛子・慶応大名誉教授の調査による

(2018年4月16日朝刊掲載)

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