×

ニュース

映像で残す古里の戦争 教え子とドキュメント映画 大田二中の山尾教頭

 大田二中(広島県大田市)の山尾一郎教頭(54)が、大田市内の戦争の記憶を掘り起こしたドキュメント映画制作に、教え子と取り組んでいる。きっかけは、島根県内を舞台にした短編映画づくりを目指す「しまね映画塾」。2009年に参加して以来、テーマを変えながら年1作のペースで3本制作、薄れゆく古里の戦争体験を映像で記録している。(石川昌義)

 社会科教諭の山尾さんが戦争に関する証言を記録するようになったのは、09年の映画塾だった。大田市を会場にした2泊3日の撮影合宿。第2次世界大戦中、陸海軍に徴用された民間の「戦時徴用船」を題材にした記録映画班に加わった。

 大田市内の漁港からも、多くの漁船が徴用され、中国大陸や南洋諸島に向かったまま消息を絶った。徴用船の史実を追う浜田市の写真家川上譲治さん(62)と一緒に遺族を訪ね、証言を聞き取った。

 山尾さんは「徴用船が出航した港は、子どもの頃からの遊び場。教師でありながら、埋もれつつある地域の歴史を残す作業をしてこなかった」と反省を込めて振り返る。

 翌年夏に初めて、教え子に記録映画の制作を呼び掛けた。題名は「知られざる女学生たちの戦争」。1945年8月、旧制大田高等女学校(現大田高)の校舎に置かれた広島第一陸軍病院大田分院で、広島で被爆した兵士を救護した女学生の証言を集めた。

 大田高女のあった場所に立つ大田一中の教頭も務めた山尾さん。校庭の片隅にある「学校が原爆病院になった日から四十五年」と刻まれた石碑の存在が気になっていた。生徒たちは、1990年に石碑を建てた元女学生たちにマイクを向けた。

 「駅から学校に運ばれる途中に息絶える人が大勢いた」「教科書に載っていたように『天皇陛下万歳』と言って死ぬ兵士はいなかった。みんな『お母さん』と呼んでいた」。14歳の頃の記憶を回想した勝部信子さん=当時(79)=は「戦時中は自由ってものが全然無かったから…。皆さんは好きな道を進んでほしい」と語り掛けた。

 昨年夏は、三瓶山麓に集団疎開した大阪の児童に焦点を当てた。「のどかな山里にも大変な時代があったことを生徒と学んだ」。松根油の採取や開墾作業で汗を流した子どもたちが、終戦から60年以上たった今も交流を続けていることを伝えた。

 その映像は約20分に編集し、中学校の秋の文化祭で上映。その後、地元のケーブルテレビでも放映された。

 教え子の中学生にとって、戦争体験者は曽祖父母の世代だ。「命の重さが今とは違っていた昔を知る人々から生きた言葉を引き出した生徒は、戦争や平和について、より深く考えられるように成長したはず」。映像として未来に残す証言の力に、希望を託す。

(2012年12月3日朝刊掲載)

年別アーカイブ