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社説・コラム

寄稿 父・四国五郎とシベリア 四国光

抑留 地獄であり青春 表現物に「証言」託す

 戦後の広島で反戦を訴える画業や詩作に励み、近年、再評価が進む四国五郎(1924~2014年)は、シベリア抑留の体験者だった。ひそかに持ち帰った「豆日記」などを基に、記憶の生々しい時期につづった私家版の抑留記が昨年末に公刊され、反響を呼んだ。今春、父の足跡を追ってシベリアを訪ねた長男の光さん(61)=大阪府=に、戦争や抑留の体験をたどり、継承する意義などについて寄稿してもらった。

 シベリアの地へ、父の足跡をたどる旅に出た。父・四国五郎は1945年の敗戦から3年余り、極東ロシアに位置するハバロフスク北方のフルムリと、沿海地方のナホトカで抑留生活を送った。

 真冬は氷点下50度を下回るという極寒。飢えと過酷な強制労働で、吐血して生死の境をさまよった。奇跡的に回復した後、収容所にあってもなお残る旧軍隊の階級制度や体質を批判する「民主運動」に、絵や詩などの表現物を作ることで協力した。

 父は「シベリアは地獄であり青春だった」と語った。地獄は分かる。しかし、青春とは?

 シベリア体験とは抑留者にとり、非体験者の想像を絶して、もっと多義的なのかもしれない。父についていえば、思い出したくもない悪夢であり、同時に、軍国主義の呪縛から自らを解き放っていく学びの時空でもあった。父が「人生で一番、一生懸命に生きた」というシベリア。その現場に、私もどうしても立ってみたかった。

 行くのであれば、雪の残る、まだ厳寒といえるシベリアを体験したかった。シベリア抑留者支援・記録センター(東京)代表世話人の有光健さんに引率をお願いし、父の足跡のままにたどった。

 「こんな所には二度と来たくなかった」という抑留地に、父は67歳と70歳の時の2度、墓参に訪れ、凍土に埋葬された同僚を弔っている。2度目の墓参の際には、現地で油絵を寄贈した記録がある。

 広島市内のアトリエに、絵の写真が1枚だけ残されているが、実物は見たことがない。今回、幸運にもその絵が、フルムリ近くのコムソモリスク美術館に所蔵されていることが分かり、初めて対面できた。

 強制労働で自分たちが敷設した鉄道に、初めて列車が走る。そのさまを、日本人抑留者とロシア人が眺める。抑留のつらさも悲しみも、長い時間を経て浄化されたような、静かな友好の絵。父があえてこのテーマを選んだ気持ちがよく分かり、思わず胸が熱くなる。

 父は墓参の旅では泣いてばかりいたらしい。2度の墓参で描いて持ち帰った絵が、分厚いスケッチ帳に8冊、約700枚。これだけ描いて「やっと胸のつかえが取れた」と言っていた。

 生涯の創作テーマは「戦争と抑留」だと言い続けた父だったが、ついにシベリア体験を作品にまとめずに逝った。没後3年余りたち、昨年末に公刊された画文集「わが青春の記録」(三人社)は、復員して間もない頃、20代半ばの父が記した私的な備忘録の復刻である。

 なぜ描かなかったのか、描けなかったのか。「地獄」と「青春」のはざまで揺れ動くうち、病によって時間切れになったのか。生涯を通じて「表現する」人間であった父にとって、どれだけ無念だったろうと思う。

 戦争や被爆の体験と同様に、シベリア抑留も、もうすぐ生きた証人が不在の時代となる。残された表現物こそが、次世代へ向けた継承のための貴重な砦(とりで)であり教科書となる。

 父は、シベリア抑留については限られるものの、幸いにして膨大な作品を残した。それは次世代へ向けた平和のための証言であり、証言はバトンだ。次に手渡されてこそ生きる。私も父の作品を活用しながら、次世代へ確実にバトンを渡していきたい。

 シベリアの空は抜けるように青かった。「後はよろしく頼む」と、白樺(しらかば)の疎林に父の笑顔が浮かんで消えたように思えた。

(2018年4月24日朝刊掲載)

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