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連載・特集

「原爆の子の像」建立60年 サダコの輪 核廃絶へ

 広島市中区の平和記念公園に「原爆の子の像」が建てられて5月5日で60周年を迎える。2歳で原爆に遭い、折り鶴に思いを託しながら12歳で亡くなった佐々木禎子さんの同級生たちが建立を呼び掛け、輪が広がって実現した。「SADAKO」の物語とともに世界的にも知られて久しい。平和の象徴としての歩みを振り返り、核兵器廃絶への道がいまだ遠い情勢の中で果たすべき役割を考えたい。(桑島美帆、増田咲子)

ヒロシマ発 「人々の希望」

平和を祈る磁場が定着

 色とりどりの折り鶴に囲まれた原爆の子の像。訪れる人たちが静かに祈りをささげる。平和学習の子どもに交じり、外国人観光客も目立つ。国内外から届く折り鶴は年間に10トン前後、数にして約1千万羽。記録の残る2002年度から累計で2億羽に迫る。

 像の建立には佐々木禎子さんの死をきっかけに立ち上がった広島の子どもたちの力が何より大きかった。その事実は核兵器禁止条約が制定され、廃絶に向けた声の高まりを考える上でも大きな意味を持つはずだ。

 運動の発端は幟町小(現広島市中区)6年の時、入院した禎子さんを級友が励ます「団結の会」だった。中学生になっても見舞いを続ける約束をしたが、8カ月後の1955年10月、息を引き取った。「禎ちゃんのために何かしたい」と、原爆で亡くなった全ての子どもを慰霊するための像を建てようと立ち上がる。

 運動は広島の児童・生徒を巻き込んで拡大。54年の第五福竜丸の水爆被災を受けた原水爆禁止への世論を背景に、全国から募金や手紙が寄せられた。像の足元に刻まれた「これはぼくらの叫びです これは私たちの祈りです 世界に平和をきずくための」の碑文は子どもたちの願いだった。

 除幕から程なく、像を中心に平和を祈る「磁場」が生まれ、定着していく。禎子さんの兄雅弘さん(76)は「国を問わず人々の希望が集まる場所。折り鶴と一緒に心がささげられている」と受け止める。

 58年6月、広島「折鶴の会」も発足した。禎子さんの級友に像建立を提案した河本一郎さん(01年に72歳で死去)が世話人。子どもたちと一緒に、像周辺の清掃や海外から被爆地を訪れる人たちに折り鶴を贈る活動を続けた。

 毎年5月5日に河本さんの遺志を継ごうと、碑の前では建立記念式典が開かれる。ことし初めて参加する広島市立大1年石原侑実さん(18)は「像の存在は人類共通の願いである『平和』への結びつきを強めてくれる」と力を込める。

 ただ歳月を重ねる像は、少女のブロンズ像を支える台座が鉄筋コンクリート製であり、老朽化は避けられない。所有する広島市は定期的に健全度調査を実施。必要な修繕をしているが、さらに抜本的な保全策が必要になるかもしれない。

 被爆地の戦後史に詳しい元広島女学院大教授の宇吹暁さん(71)は、像の建立運動は子どもや教育界を挙げて取り組んだ初めての平和運動だと考えている。「ヒロシマ発で世界化された像は、子どもたちが平和を考える上でよりどころになる。モニュメントから学ぶとともに、どう引き継ぐかが課題だ」と問い掛ける。

≪級友たち≫

母校資料室 熱意つなぐ

 佐々木禎子さんの級友で原爆の子の像の建立運動の礎を築いた幟町小「6年竹組」のメンバーは、当時の熱意を胸に、5月12日に母校にできる「のぼり平和資料室」に協力している。

 禎子さんが病床で折った鶴や像建立に関する約20点を公開する。開設を前に竹組の卒業生8人が集まった。「夜遅くまでガリ版刷りでビラを作った。とにかく必死でやった」と山本清司さん(75)=広島市安佐北区。毎週のように募金に参加した水野志津子さん(75)=西区=は「お願いします、と叫んでも大抵素通りされた」と思い返した。

 そうした記憶を語り継ぐ一人が、2年生から卒業まで禎子さんと同級の川野登美子さん(75)=中区=だ。語り部活動や自費出版の本で、竹組の団結力が建立につながったことを伝える。

 「被爆した私も死ぬかもしれないという恐怖と、中学生になって見舞いが遠のいた後ろめたさから、何かしなくては、という思いに駆られた」。川野さんは、広島県中小企業家同友会の有志と、像にささげられた折り鶴の再生紙で作ったノートを海外の小中学校などに無償で配る事業も始めた。

 禎子さんの「形見分け」としてもらった鶴1羽を保管していた空田寛美さん(75)=南区=は寄贈のため同小に持参した。島本靖校長(57)は「禎子さんを身近な先輩として感じられる貴重な資料。みなさんの意志を受け継ぎ、平和教育に取り組む」と語る。

≪世界へ≫

折り鶴 各国で取り組み

 原爆の子の像には、世界中から折り鶴が届く。広島市によると2016年度までの10年間で113カ国・地域から寄せられた。

 ドイツのヘッケンベックの学校からも近く計千羽の鶴がささげられる。広島インターナショナルスクール(広島市安佐北区)の千羽鶴クラブの呼び掛けに応じた。部員は折り鶴の由来や像の建立運動を学び、託された鶴を持参している。

 2016年のオバマ米大統領(当時)広島訪問後、一段と増えた。部長の仲裕也さん(17)は「もっとたくさんの国に呼び掛け、ヒロシマで起こったことを世界へ広めたい」と意気込む。

 もう一つ重要なのは被爆地広島を訪れ、像に足を運んだ人たちが、自分たちの国や地域で折り鶴を通じた平和貢献を目指していることだ。

 広島をよく訪問する米ホノルルのプナホウ学園の生徒たちは、13年からパールハーバーを訪れる観光客に鶴の折り方を教える「サダコプロジェクト」に取り組む。同学園元教師で広島出身の被爆2世ピーターソンひろみさん(69)は「平和と和解のシンボル」と言い切る。

 ブラジルでは、日系2世の大泉リジアさん(34)が2年前から「一つの願いを千羽鶴に」と呼び掛け、紛争地の病院などに折り鶴を届ける活動を続ける。

 この物語を海外で初めて伝えたのは、1958年に「灰墟の光」を出版したドイツ出身のジャーナリスト、ロベルト・ユンクと言われる。さらに61年にオーストリアの作家カール・ブルックナーが小説「サダコは生きたい」を、77年に米作家のエレノア・コアが「サダコと千羽鶴」を出版したのが大きい。禎子さんをモチーフにしたモニュメントも数多く生まれている。

 20年の東京五輪・パラリンピックに向け、鶴を折る営みを「五輪休戦」につなげる試みも緒に就いた。禎子さんの母校、幟町小もキックオフの舞台となった。平和のシンボルとしての像の役割は、さらに重みを増していく。

(2018年4月30日朝刊掲載)

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